詩とは矛盾である。矛盾したことばになってしかあらわれることができないものが詩である--とあらためて思う。
「憧れ」は、おそらく若い男の恋人にささげられた詩。
年をとる前にみまかった美しい死体。
涙ながらに 贅を凝らした廟の壁龕に納められ、
頭の傍らにバラ、足元にジャスミン。
それはそっくり--、
満たされずに終わった憧れ、
一夜の悦びも、光まばゆい翌朝も授からなかった憧れに。
「美しい死体」ということば自体が、すでに矛盾している。死んでしまったものにとって「美しい」は意味がない。中井久夫が「遺体」ではなく、「死体」という冷たいことばを選んで訳しているのは、そういうことを知っているからであろう。絶対的な断絶は、「遺体」というようなことばの表面の「思いやり」では埋めつくせない。
この詩の矛盾は、その「死体」と「憧れ」の出合いにある。
「憧れ」は名詞で書いてしまうとぼんやりしてしまうが、「憧れる」という動詞にするとわかることがある。生きているものしか憧れることができない。生きているから、憧れる。そしてその「憧れる」は「欲望する」に似ている。似ているけれど、違う。どこが違うか。「憧れる」はけっして手に入れることができないものに対してあこがれる。「欲望する」はそれを手に入れてしまう。手に入れてしまえば「憧れ」は消えてしまう。
手に入らないからこそ、美しい。死んでしまった肉体--それは手に入れることができなかったからこそ美しい。「満たされずに終わった」は欲望が実現せずに終わったという意味だが、だからこそ永遠に美しい。
「一夜の悦び」「光まばゆい翌朝」はふたつのことばで書かれているが「ひとつ」のことである。
この詩では、そういう矛盾の結合とは別に、四行目の「それはそっくり--、」が絶妙な訳だと思う。副詞で終わっている。用言がない。(体言でもいいのだが、つながることばがない。)ここでは、たぶん、そっくり「である」、とても似ている、という意味なのだが……。
この「そっくり」のあとのことばを省略して、「憧れ」の二行がやってくる。突然、やってくる。このスピード、切迫感が、カヴァフィスの「美しい死体(男)」に対する思いの強さを浮き彫りにする。「そっくりである」では間延びしてしまう。倒置法も効果的だ。「憧れにそっくり」という具合に、最後に「そっくり」を持ってくると、「そっくり」と思っている気持ちが遠くなり、あいだにはさまったことばがきざったらしく宙に浮かんでしまう。余韻がなくなる。