中井久夫訳カヴァフィスを読む(15) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(15)
          
 中井久夫は複数の声を詩のなかに持ち込む。「意味」以上に、様々な人間の声を聞くことができるひとである。カヴァフィス自身もそういうタイプの人間だったのだろう。「声」という作品。

死者の声。理想化された いとしい声。
死者のでも 死者同然に近寄れない
私を去ったひとの声でも。

 死んでしまった恋人の声か、あるいは生きているけれど「私を去った」ので会うこともかなわず、「死者同然」となってしまったひとの声か。「理想化された」という修飾節がせつない。去ってしまった恋人を、詩人は憎むことができない。捨てられてなお、その男を「理想化」してしまう。

 その「理想化」した声というのは、ある意味で詩人がつくりだした声なのだが、それが夢の中で詩人に話しかけてくることがある。そうすると、

ああ その音調。刹那 音調が戻ってくる。
わが人生の最初の詩から帰ってくる。
深夜、つかの間にきえゆく遠い音楽。

 「声」は「ことば」をもっている。つまり、ことばを話し、話すときは「意味」を話している。けれども聞くのは「意味」ではない。カヴァフィスは「音調」と書いている。音と調べがカヴァフィスをとらえている。そして、それを「音楽」と呼んでいる。
 「意味」は「ことば」にはない。「意味」は「声」を聞く詩人のこころにある。「意味」に「音楽」はない。でも「音楽」には「ことば」では語れない「意味」がある。「声」には「ことば」では語れない「意味」、「音」を超える「音楽」がある。「意味」のように「頭」を経由するのではなく、直接耳にはいり込んで、肉体の奥を刺戟する力がある。

 この詩では、私は「刹那」という表現にこころを動かされた。「刹那」は「瞬間」「究めて短い時間」という意味だが、私は、「裏切り」で中井がつかった「すなわち」を思い出した。夢のなかで恋人が話しかけてくる。その声を聞くと「即座に」音調が戻ってくる。恋人の話してる「意味」をつかみ取る前に「音調」が詩人をとらえてしまう。「声」すなわち「恋人」、「声」すなわち「肉体」である。
 カヴァフィスは「音楽」と呼んでいるが、「声即肉体」「肉体即声」というように言いなおしてみたい。ことばを排除して肉体が出合う。そのとき、カヴァフィスは「音楽」になる。聞くのではなく、「音楽」として恋人に出会うのだ。