「野蛮人を待つ」には古代ローマ人の、一種の矛盾が書かれている。腐敗する政治。野蛮人に侵入されるのはいやだが、野蛮人なら腐敗した政治家を一掃してくれるのではないか。そういう思いがある。こういう矛盾が、詩に対話形式をとらせている。
「なぜ両執政官、行政監察官らが
今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
見事な金銀細工の杖を握っているのか?」
「今日 野蛮人が来るからだ。
連中はそういう品に目がくらむんだ」
長い質問、状態のこまかい描写と、短い回答の対比が、全体を緊迫させる。「そんなこともわからないのか」という回答者のいらいらを浮かび上がらせる。そして、その回答者の口調のなかに「口語」がまじり込むことが中井久夫の訳の、声の的確さをあらわしている。「連中」と呼び捨てにし、「目がくらむんだ」と軽蔑した調子が、多くの市民によって共有されている(常識になっている)という感じを与える。
「今日 野蛮人が来るからだ。
奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」
この「お嫌いなんだ」という言い方も一種の侮蔑がある。「お嫌い」と丁寧な表現を装いながら、主語は「奴等」と切り捨てている。「連中」よりももっと距離感のあることばである。
中井久夫は「意味」ではなく、声の調子、肉声がもっている感情、感情のあらわれることばを詩のなかで動かす。そうすることで、そこに人間のドラマを再現する。野蛮人がやってくるのを待つ、という「こと」だけではなく、その「こと」といっしょに動いているこころをも再現する。
「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
連中はせっかく解決策だったのに」
落胆は「わしら」という口語で語られる。このつかいわけも中井の訳語のおもしろいところだ。
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