中井久夫訳カヴァフィスを読む(11)  | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(11)          

 「窓」という詩は心象風景である。心象を「こと」として描いている。

うつろな日々をこの暗黒の部屋部屋で送る私。
窓がないかとぐるぐる歩く私。

 行の最後で繰り返される「私」。それが「自意識」そのものを強調する。「私はうつろな日々をこの暗黒の部屋部屋で送る。/私は窓がないかとぐるぐる歩く。」という倒置法ではない形では、「私」の動きが見えてくる。「日々を送る」は抽象的(?)だが「歩く」は具体的/肉体的である。つまり「私は……動詞」の場合は、そのひとの「肉体」が見えてくる。倒置法「……私」の場合は、そういう「私」を意識する「私」、「私の意識」が迫ってくる。「部屋部屋」という複数形(?)がつかわれているのは、「私という意識」の複数性と重なるのかもしれない。同時に、一般的には「部屋」ということばで複数形を兼ねるのが日本語だが、それを「部屋部屋」と重ねることで複数意識を強調しているのも、「私」の精神のあり方を浮き彫りにしている。「肉体」はひとつだが、「意識」は複数に分裂しながら生きている。
 意識は、複数の部屋に分裂し、入り組んだ「牢獄」なのだろう。そのなかで、「私」には「私」しか見えない。なぜなら、「窓」がないから、「光」が入って来ないから。「窓」と「光」は、この詩では同義語であり、「窓がない」は実は「光がない(光が差さない)」という状態に言い換えられる。そういう状態で、詩人は窓は見つからないからいいのかも、とも思いはじめる。

光もやはり専制君主だろうし、
新しいものは見せてくれるだろうが、
その正体はわかったものじゃない。

 この詩の終わり方は、「私」が専制君主のために窓のない「牢獄」に閉じ込められたという事実を暗示させる。この専制君主が詩人の恋人だと仮定すると、どうなるだろうか。恋人のために詩人は苦悩している。何も見えない。暗闇にいる。牢獄にいる。
 けれど、見えるようになったらそれはどういうことになるだろう。新しい恋人をみつけ、ふたたび恋にとらえられ、「私という牢獄」に閉じ込められるのではないだろうか。
 「その正体はわかったものじゃない。」という口語の響き、口調がなまなましい。いまだって恋人の正体はわからない。わからないから、私は私にぶつかるしかない。--この不透明な、真っ暗な恋しか生きる道がない、と自覚している。自分に言い聞かせているのかもしれない。