池井昌樹「内緒」は、わかるのか、わからないのか、よくわからないけれど、そういうあいまいさこそが「わかる」ということかもしれない。
いなかのいえのひだまりに
しんぶんがみひろげ
あつあつコロッケたべたっけ
かあちゃんと
くすくすわらってたべたっけ
まだかえらないとうちゃんや
じいちゃんばあちゃんいぬのコロ
みんないっしょでたべたっけ
これは田舎の家でのある光景。家族でコロッケを食べている。「ひだまり」というから縁側かどこかだろう。なんとなく幸せで「くすくすわらって」いる。何が楽しいかわからないけれど、きっといっしょに食べるということがうれしいのだ。
そういう「うれしい」がわかる。コロッケを「食べる」がわかる。
でも、「まだかえらないとうちゃん」は、どうしたの? まだ帰らないなら、コロッケを食べられない。それなのに「みんないっしょでたべたっけ」。矛盾しているねえ。ことばを論理で追うと矛盾しているが、感覚的には矛盾しない。「とうちゃん」はいるときもあれば、いないときもある。ほかの家族もいるときもあれば、いないときもある。そして、いないときも、そこにいる感じがする。
いま、ここにいなくても、いる。この矛盾が家族であり、その矛盾を「ひとつ」の世界にしてしまうのが、コロッケを「食べる」という動詞。「いっしょ」にという感覚。とうちゃんがいないときは、とうちゃんにも食べさせたいね、とうちゃんには内緒だよ、という矛盾した会話が家族。まだかえらない「とうちゃん」は、ときには「かあちゃん」であったり、「じいちゃん、ばあちゃん」であったりするかもしれないが、そういう「入れ換え」が可能なのが家族。だれかを思い、だれかには「内緒」で、それでも「みんないっしょ」というのが、「家族」。
池井にとって「内緒」の「緒」は「一緒」の「緒」、「内証」と「証」の漢字をあてると違ったものになるのだろう。
いなかのいえのひだまりに
それからなにがあったのか
それからコロはいなくなり
そふぼもちちもいないくな
ははをしせつにおいやって
いまはもぬけのからのいえ
いなかのいえのひだまりを
いまごなぼくはおもうのだ
あとかたもないこのぼくは
かあちゃんと
「それからなにがあったのか」。何があったかは、池井が書かなくても誰もがわかっている。「コロハいなくなり」「そふぼもちちもいなくなり」の「いなくなり」がどういうことか、だれもが「わかる」。わかっているから、ことばでは書かない。
ひとは、わかっていることしか書けないが、同時にわかっていることは書かない。書かなくてもわかることは、書く必要がない。
それでも、それのまわりのことは書いてしまう。
何を書いているのだろう。
「あったこと」を書いているのかな? まわりに「あったこと」。田舎の家で「あったこと」。でも「なにがあったのか」。うーん、ここでも循環してしまう。この循環は矛盾?
その一方で、最後の「あとかたもないこのぼくは/かあちゃんと」。このしり切れとんぼの2行をどう読む? あとに、どんな「動詞」を補う?
動詞を補う前に、「あとかたもないこのぼく」をどうとらえるといいのか。「ぼく」は詩を書いている池井。それなのに「あとかたもない」というのは矛盾。いや、これは、田舎の家にはいないということなのだから、矛盾ではないのかも。
えっ、そうなのか?
では「かあちゃん」は、どこに? 施設に? そうではなく、「いなかのいえのひだまり」に「いる」。そして、そのとき「いなかのいえのひだまりに」は「あとかたもない」はずの、このぼく(東京にいる池井)の、その「コロッケをいっしょにたべた」という「思い出」が「かあちゃん」と「いっしょに」「いる」。
「なにがあったのか」書かなくてもわかるように、「いっしょにいる」がわかるから、書かないのだ。いや、池井の場合は、それは「本能」として「書けない」のだ。「本能」は「書けない」を選んでしまうのだ。
私の書いた感想が正確がどうかわからない。書きながら、わからない。けれど、池井が田舎の家を思い出し、日だまりを思い出し、コロッケを家族でいっしょに食べたことを思い出し、「かあちゃん」もそれを思い出しているだろうなあ、ということはわかる。
池井の肉体のなかで、そして「かあちゃん」の肉体のなかで起きている「こと」は、わかる。
「わからない」があるからこそ、逆に、つよく「わかる」。
私は実は大学受験のかえりに、坂出の池井の家に遊びに行ったことがある。「かあちゃん、とおちゃん、ねえちゃん」がいたことをおぼえている。顔はおぼえていない。そこで、「かあちゃん」から「食べ物では何が好き?」と聞かれ「キャベツの刻んだものが好き」と答えたら、夕食にとんかつが出た。えっ、そういうつもりで言ったのではなく、ほんとうにキャベツを刻んだ、単なる野菜が好きだったのだが。私の田舎の家ではとんかつなんか食べないから、とんかつを食べたいとは思いもしなかった。そうか、池井の家ではとんかつを食べるのか、と思った。そのとんかつのおかげで、私は旺文社のテストで合格率4%以下の大学に合格することができた。(時系列が逆?)そんなふうに、ときどき思い出す。「とおちゃん」は厳格で、「ねえちゃん」はピアノが上手だった。風呂はなぜか浴槽がふたつあった、ということもおぼえている。その思い出と「いっしょ」に、池井の田舎の家は、私の肉体になっている。
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