大瀧の指摘は、次の通り。
海へ漂着した主人公を、舐めるように手持ちカメラが追います。その時、歩く度にカメラのレンズに水滴が付いている!!!なんと!これはカメラマンとしては絶対やってはいけない、恥ずかしいことです。それこそ、映画だと分かってしまうではないですか!
前半のCGつかった影像が完璧なのに対し、地球についてからの影像の処理がずさんというのだが、私はこのシーンではまったく逆のことを思った。涙が無重力状態で飛び散るシーンが美しいと書いたのと理由は似通っている。
デジタル技術が進んだ時代、カメラについた水滴くらい簡単に消せるだろう。これは、あえて残しているのである。
私はカメラの専門家ではないし、愛好家ですらないのだが、何かを写真をとっていて水滴がついてしまうということは経験したことがある。失敗したな、と素人だから、思う。けれど、その失敗が「臨場感」にもなる。奇妙な「映画用語」でいえば「クオリティー」にもなる。その瞬間にしか取れない、その場限りの「臨場感」。水滴に「臨場感」というのは大げさかもしれないが、このカメラのレンズについた水滴という「失敗」が地球を実感させてくれる。
それまでの宇宙の影像が、まったくの「絵空事」。「真実」っぽく見えるが、私はそれが真実であるかどうか知らない。見たこともない影像なのに「真実」と思い込んでみるのは、それまでに私が見てきた「宇宙の影像」とどこか似ているからである。「宇宙の影像」自体が私の体験ではなく、他人の体験であり、知らないものに知らないものを重ね合わせて「真実」と思い込んでいるだけである。
でも、カメラについた水滴、水滴に邪魔されて(?)、「現実」がくっきり見えないというのは体験したことがある。カメラにとらなくても、たとえばバスに乗っていて雨が降りはじめたとき。ガラスに水滴がつく。そうすると街並みが水滴に邪魔されて、くっきりとは見えなくなる。これは私の「肉体」がおぼえている。
で、そういうシーンがスクリーンに映し出された瞬間。私は、これは「現実」だとはっきり「わかる」。映画なのに(つまり、嘘なのに)、それを「現実」と受け止めてしまう。ほんとうに撮影しているのだと「わかる」。
大瀧は、撮影していること、映画であることがわかってはだめなのだという主張のようだが、私は、この映画では逆に感じる。
カメラについた水滴で、「現実(つくりもの)」であると「わかる」瞬間、不思議なことに、前半のCGも「水滴」と同じように「現実」が映し出されたものと勘違いするのである。大瀧のいうミスが、逆に、前半も同じようにそこにあるものをカメラで直接撮影したのだという「嘘」をつくりだす。カメラはいつでも「ほんもの」を映し出しているという「嘘」を完璧にする。
もし最後に水滴に汚れた(?)影像がなかったら、最後も「映画」、最初も「映画」、どこにも「ほんもの」は存在しない「架空」になってしまう。水滴という「現実」がすべての嘘を嘘ではなく現実だと主張する根拠になる。
よく嘘を上手につくなら、すべてを嘘にするのではなく一つだけ「ほんとう」をまじえるのがコツという。「ほんとう」が一つあるために、それがだれにもわかる「ほんとう」であるために、それにつながることがらが、「ほんとう」に見えてくるのである。それと同じ効果が、この映画にある。カメラについた水滴--これは、見たことがある。これと同じもの(似たもの)を見たことがあるという感覚が、それまでのCGの影像さえも、それが「本物」に見えるのは、もしかしたらそれを見たことがあるからかもしれないと錯覚させるのである。あの影像は、作り物ではなく「ほんものだ」と錯覚させるのである。
だいたい、宇宙の影像が嘘なら、地球の影像だって、でたらめである。無重力から帰って来た人間が、地球(地上)の重力よりもはるかに重い負荷(重力)のかかる水中で自由に動けるわけがない。簡単に泳げるわけがない。水圧は「浮力」としても作用するが、水をかく、水をける、というのは大変な力がいる。それを平気で動いているのだから、それも「現実」と錯覚させるためには、カメラの水滴の工夫は必要なのだ。(深い水中で泳いでいた人間が、浜辺で立ち上がれない--というのは疲労困憊という理由をつけても奇妙である。宇宙から地上へ帰って来た人間は、重力のために、すぐに立てない、という「常識」を再現することで、これは「現実」である、と映画が主張しているだけである。)
また、この映画のタイトルにも注意を払う必要があるかもしれない。日本のタイトルは「ゼロ・グラビティー(無重力)」だが、現代は「グラビティー(重力)」である。宇宙から帰還して、「重力」を感じて、安心する。ほっとする。その「解放感」のようなものを視野にいれている。その、ほんとうは不便であるはずの重力が「解放感」をもたらすのと同じように、カメラについた水滴という「不完全」が「解放感」につながる。あ、これは地球なんだ、助かったんだという「安堵感」を生み出す。その安堵感のなかで、観客は映画の主人公に自分の「肉体」を重ね合わせる。
映画というのは視覚と聴覚の体験だが、その現実の視覚・聴覚というのは「純粋」なものではない。いろいろな不純物を含んでいて、そのために正確な判断ができなかったり、錯覚が起きたりする(「肉体」の内部で「感覚融合」が起きる)のだが、映画にもそういう「不純物」のようなものがあると、突然、「嘘」が「ほんもの」に見える。「ほんもの」であると感じるか、「にせもの」であると感じるかは、「肉体」が何を知っているか(おぼえているか)ということと関係してくる。--と書くとややこしくなるので、まあ、これ以上は書かない。
ちょっと違う(ぜんぜん違うかもしれない)のだが、影像の嘘と現実という問題を考えるとき、スピルバーグの「ジュラシックパーク」はおもしろい。恐竜の島なんて、嘘に決まっている。その映画のなかで、草食恐竜がティラノサウルスから集団で逃げてくるシーンがある。主人公たちもいっしょに逃げる。このとんでもない嘘のシーンで、な、な、なんと、大地が上下に揺れる。恐竜の重さに地響きを立てて揺れる。この瞬間、私は、この影像を「ほんもの」と錯覚する。信じてしまう。なぜか。重いものがスピードを上げて移動するとき、そこには地響きがあり、振動があるということを私の「肉体」は知っているからである。ダンプカーが家の近くを走るとき、家が揺れる。大地が揺れるからである。そういうことを私は瞬間的に思い出し、あ、これ、「ほんもの」と思うのである。
どんな嘘にも、そしてそれが「完璧な嘘」であればあるほど、どこかに「ほんもの」が必要。「ゼロ・グラビティー」の場合、その「ほんもの」が「水滴」である。
そして、その水滴は、実は、サンドラ・ブロックが宇宙船のなかで流した涙の一滴である--と書けば、そこからまたファンタジーが始まるのだが、まあ、やめておこう。以前書いた「ゼロ・グラビティー」(http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/9279ff19bfa91baf376ecfbc0c72e2b1)の感想の繰り返しになるから。
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