「ロクモン」
二階でセザンヌ的二人の農夫が
これは、とてもきざったらしい行である。見方によっては「ハイカラ」といえるかもしれないけれど、油絵(西洋画)と日本の農夫を結びつけるところが、なんとも「いやらしい」感じがする。
でも、この「いやらしさ」がなんともいえず、ひきつけられる。何か言いたいという気持ちにさせられる。この行から西脇のある特徴(本質?)に触れることができるような気がする。
ただし、それには補足が必要。「一行」しか取り上げないのが、この「日記」の原則なのだが、「反則」をしてみる。その前後の行を引用してみる。
やがて茶色のウドンをたべて
二階でセザンヌ的二人の農夫が
やせこけた指でヒシャー
食堂でウドンを食べて、二階で将棋を指す(「ヒシャー」は「飛車」だろう)。そういう日本的な情景を両側に置くことで、セザンヌがセザンヌではなくなる。いや、さらにセザンヌになるのかもしれない。そうか、「西脇の見たセザンヌ」は、こういうものなのか、ということが「わかる」。
この「わかる」は、あ、「西脇の見たセザンヌ」は「私の見たセザンヌ」とは違うと感じ、ふたつがぶつかると、そこから「……を見たセザンヌ」が消えて、「西脇」という人間がうかひあがるような感じがする。そうか、これが西脇の肉眼なのか、と一瞬感じる。ほんとうは何も見えないのだけれど。
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西脇 順三郎 | |
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