西脇順三郎の一行(96) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(96)

「ロクモン」

二階でセザンヌ的二人の農夫が

 これは、とてもきざったらしい行である。見方によっては「ハイカラ」といえるかもしれないけれど、油絵(西洋画)と日本の農夫を結びつけるところが、なんとも「いやらしい」感じがする。
 でも、この「いやらしさ」がなんともいえず、ひきつけられる。何か言いたいという気持ちにさせられる。この行から西脇のある特徴(本質?)に触れることができるような気がする。
 ただし、それには補足が必要。「一行」しか取り上げないのが、この「日記」の原則なのだが、「反則」をしてみる。その前後の行を引用してみる。

やがて茶色のウドンをたべて
二階でセザンヌ的二人の農夫が
やせこけた指でヒシャー

 食堂でウドンを食べて、二階で将棋を指す(「ヒシャー」は「飛車」だろう)。そういう日本的な情景を両側に置くことで、セザンヌがセザンヌではなくなる。いや、さらにセザンヌになるのかもしれない。そうか、「西脇の見たセザンヌ」は、こういうものなのか、ということが「わかる」。
 この「わかる」は、あ、「西脇の見たセザンヌ」は「私の見たセザンヌ」とは違うと感じ、ふたつがぶつかると、そこから「……を見たセザンヌ」が消えて、「西脇」という人間がうかひあがるような感じがする。そうか、これが西脇の肉眼なのか、と一瞬感じる。ほんとうは何も見えないのだけれど。


西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店