西脇順三郎の一行(94) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

西脇順三郎の一行(94)

「海の薔薇」

ロクロはまだ壷の悲しみつくるのだ

 この1行は日本語としておかしい。ロクロは陶器をつくるための道具。実際に壷をつくるのは人間(陶工)であって、ロクロではない。また、陶工がつくるのは壷であって
悲しみではない。
 --というようなことを言ってもはじまらない。
 詩なのだから。
 で、この「おかしい日本語」がなぜか美しく感じる。なぜ美しく感じるかといえば、それが「おかいし」(不自然)だからである。不自然なものに触れると、無意識的に、その不自然を補って動くものがある。
 私のなかに。あるいは、ことばのなかに、かもしれない。
 壷をつくりつづける。同じ形の壷をつくりつづける。そこには「楽しい」とは違った感情も動く。それが「悲しい」かどうか、はっきりしないが、「悲しい」といわれれば「悲しい」が浮かびあがってくる。壷をつくっているのか、「悲しい」をつくっているのか、わからなくなる。また、「悲しい」をつくっているのは陶工なのか、それとも壷なのかもわからなくなる。さらに、もしかしたらロクロなのかもしれない、という気持ちがしてくる。(手びねりの壷なら、また別の「悲しみ」をつくる、ということがありうる。)そして、それは「わからない」まま融合して、「ひとつ」になってしまっている。
 その「ひとつ」が、なんとなく、言い換えると直感的にわかる。
 直感的にわかる、直感的にしかわからない。--だから、それはことばでは説明し直すことができないのだけれど、こういう説明できない何かに出会ったとき、私はそれを詩と呼んでいる。1行のなかで、なんでもかんでも、思ってしまうのだ。1行のなかで迷子になって出て来れなくなる。
 そういうことが詩を読みことだと思う。