西脇順三郎の一行(91) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(91)

「壌歌 Ⅱ」

「絶対的コッケイ性」                      (103 ページ)

 西脇にとって詩は「コッケイ」なものである。その「コッケイ」とは何か。「絶対的コッケイ」とは何か。普遍になりえない普遍がコッケイであると書くと同義反復になるが。
 普遍には二種類ある。あらゆるものに共通する「普遍」。あらゆるものというのは言いすぎかもしれないが、いわば「理想」としての「普遍」。バラが美しいというとき思い浮かべる「美しい」には普遍がある。それは桜が美しい、トラが美しいというときにも共有されるものである。
 そうではなくて、一回性の存在がある。何かを突き破って噴出してくるその「勢い」のなかにあるもの--運動としての普遍といえばいいのか。突き破る、ということのエネルギー。不出しながら消えていくもの。
 そういうもののひとつに、この詩の前の部分では写楽の絵が引き合いに出されている。写楽の絵は消えてしまうのものではないが、写楽の絵がとられている人間の「線」は一回かぎりのカリカチュアである。その線は他人の顔には、肖像画としてはあらわれない。だから、コッケイなのだ。
 そこでは「あらわれる」という動詞が共有されている。