「壌歌 Ⅱ」
露出するとき美という ( 101ページ)
この行は一行としては不完全である。何が、どこに、いつ、などの「要素」が欠けている。もちろん、前の行にそれが書かれているから、詩としては不完全ではなく、私の行の取り上げ方が悪いのだが。
しかし、不完全であっても、というより不完全であるからこそ完全であるとも言える。何が、どこに、いつ露出しようが、「露出する」という動きが美なのである。隠れているものがあらわれる。見えないものが見える。その瞬間、世界が変わる。
西脇は、世界から何かを「露出」させようとしている。詩は「露出」にあるのだ。
こんなふうに文章が「意味」に収斂していくのは頭が疲れているからなのだが、まあ、きょうは私にはそういう日なのである。日記なので、こんなことも書いておく。