西脇順三郎の一行(86) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(86)

「壌歌」(Ⅱ)

タマデンの線路が曲つてのびている                 (98ページ)

 「曲る」は西脇の好む描写だが、曲がってそのあとはどうなるのか。あまりその先のことは書かないが、ここでは「のびている」と動詞がつづいている。「曲がる」そのものは、直線の拒絶であり、拒絶は切断であると考えると、「のびる」は何だろう。「接続」とは違うなあ。
 ふと私は西脇の好きな「永遠」ということばを思い浮かべる。はてしなくまっすぐでも永遠だろうけれど、西脇の永遠は、曲がることで果てしない先にあるではなく、その「曲がる」という運動そのもののなかにあるように思えてくる。まっすぐよりも曲がる方が「運動」に変化があって、そこに「味」がある。「味」を含めて「永遠」なのだ。