時里二郎「歌窯」の次の部分をどう読めばいいのだろうか。
歌を紡ぐのに生身の身体はいらない。生身の身体に付随するヒトの霊が邪魔なのである。木偶(でぐ)にはそれがない。それがないかわりに木偶の身体はその欠落を埋めるべく言の霊を付着させる奥部(おうぶ)を持っている。凹部(おうぶ)とも表記するが、かといって、それは身体のどこにも仕組まれていない。つまり、木偶そのものが、(人形そのものが)、奥部であり、凹部なのだ。負の身体とでも呼べばいいだろうか。木偶は物であり、見られ、触られするが、それは仮象にすぎない。言の霊が憑くときにだけ、存在し、歌をこの世に伝える。皮肉なことに、その時木偶の身体は見えない。言の霊が憑けば、当然人形の身体ではなくなるからである。
ヒトは「生身の身体」を持っている。木偶(人形)は生身の身体を持っていない。人形は生身の身体を欠落している。しかし、それは「生身」を欠落しているのであって、身体そのものの欠落ではない。身体はある。
このとき「生身」とは何か。それを問うかわりに、時里は奇妙な論理を展開している。
歌を紡ぐのに生身の身体はいらない。
問題の主語は「歌」、あるいは「歌を紡ぐ」である。この「歌を紡ぐ」ということはどういうことなのかを明らかにするために、時里は「ヒト」と「人形」を対比させている。ヒトと人形の違いはどこにあるか、と問われたとき、多くの人は感情(気持ち)を持っているか持っていないかと答える。時里は、感情(歌の主題?)を持っているかどうかをわきに置いておいて、「生身の身体」「生身ではない身体」というところから接近する。
その上で、「感情」の問題を取り上げる。時里は「感情」ということばをつかっていないのだが、とりあえず、そう呼んでおく。--と、書きながら、私はすぐに修正するのだが……。時里は、「感情」というかわりに「霊」ということばをつかう。「ヒトの霊」。しかし、それが「歌を紡ぐ」のに「邪魔」だという。
何か、変だねえ。常識に反するねえ。歌が「感情」を読む(紡ぐ)ものだとすると、まず感情(ヒトの霊)がないといけない。ところが、時里は、それが「邪魔」と断定する。
じゃあ、歌は「何を」紡ぐ(詠む)ものなのか。
この問題に対して時里はまっすぐには答えない。「何を」をわきにずらして、飛躍する。
人形は「生身」の身体を持っていない(欠落している)かわりに、その欠落を埋めるための「言の霊」を持っている。
いや、間違えた。
人形は「言の霊」を付着させるための奥部(凹部)を持っている。
あれっ、このことばの運動って論理的?
何が主題だった? ヒトの「生身の身体」、人形の「生身ではない身体」と「歌を紡ぐ」ときの関係?
人形は奥部(凹部)を持っているから、「ヒトの霊」ではなく「言の霊」を付着させることができる。その奥部(凹部)はヒトの「生身の身体」よりも「歌を紡ぐ」のに有効(?)である。
時里のいう通りだとして、その人形の奥部(凹部)で、どこ? 「何が」奥部(凹部)? たとえばその人形が女だとして、人形の膣が、子宮が奥部(凹部)? 「生身の身体」ではないから、もちろんそういう名指しできる「部分」ではない。
どこでもない。人形そのもの(全体)が奥部(凹部)、「負の身体」。
うーん。
「生身の身体」に対して「負の身体」、「現実の身体」に対して「虚構の身体」ということになるのだろうか。でも、「負」とはいいながら人形は「触る」ことができる。「見る」ことができる。「生身」は生身という具体なのに、奥部(凹部)は抽象という奇妙な論理のすれ違いがあるなあ。
で、この「負の身体」を時里は「仮象」とも言い換えている。「奥部(凹部)」が抽象田から「仮象」という抽象表現が動くんだね。そうして「人形」が「仮象」なら「奥部(凹部)」もまた「仮象」であると論理を逆流させながら、「人形/奥部(凹部)/仮象」は、
言の霊が憑くときにだけ、存在し、歌をこの世に伝える。
ええええっ。
「歌」というのはことば(言の霊、といいかえていいのかな?)によって成り立っている。歌が成立するときだけ「人形」が存在する。歌によって、人形の「身体」が成立する。「人形」の身体の奥部(凹部)は、どこへ行った? はじめに「人形/奥部(凹部)」が存在したんじゃないの? 「人形/奥部(凹部)」はいったい何だった?
歌は「何を」詠むという問いの「何」と同じように、「何か/どこか」というテーマのようなものが時里のことばの運動から、いつも消えてしまう。
さらに、時里はことばを暴走させる。歌が成立したとき、人形は見えなくなる。なぜなら、
言の霊が憑けば、当然人形の身体ではなくなるからである。
おかしいなあ。
人形って存在したの? しなかったの?
わからないねえ。何かだまされた感じになるねえ。一文一文は「論理的」に見えるのだけれど、どこか、何かが「ずれ」ていく。その「ずれ」を見極めようとする前に、ことばが先へ先へと進んで、最初に書いたことを消してしまう。「何」「どこ」がなくなってしまう。奇妙な言い方だが、そして「なくなってしまう」が「残る」(あらわれる)。「消失」という変化、「負(存在しなくなったのだから、正の反対のもの)」が「残る/あらわれる」。
これって何?
いまは数学の時間? 私は数学をやっている?
時里の書いていることは、順序立てて、論理的(?)に追いかけてはだめなのだ。そんなことをすると、何が書いてあるかわからなくなる。(「何か」と無意識に書いてしまったが、そこには「もの」は書かれていないのだ。)
じゃあ、どうするか。
全体を丸ごとのみこんでしまう。そこに書かれているのは「もの」ではなく「関係」である。まるごとのみこんでしまうと「こと」が書かれているとわかる。「関係/つながり/変化」が書かれていることがわかる。
「歌を紡ぐ」。そのとき必要なのは、ヒト(人間)ではない。「ヒトの霊(感情)」でもない。実体に歌を構成するのは「ことば(言の霊)」である。それは「生身の身体(実体)」とは相性がよくない。「生身の身体」は「生身」というくらいだから、もうそれ自体で「存在している」。存在しているものは、ことばで存在させなくてもいい。あるいは、存在しているものは、ことばの虚構を叩きこわしてしまう。必要なのは、ことばが自由に動き回れる「虚(生身ではない)」世界である。存在しない何か(仮象)が必要である。「欠落」が必要である。(欠落と負は同じ意味合いを持っている。)その欠落(負/虚)の世界で「ことば」が動く。そして「仮象」を浮かび上がらせる。その「仮象」が「実体」のように見えたとき、それが「歌」である。「生身の身体」が変化しないのに対し、それまで存在しなかったものがことばによって存在するという「変化」が歌である。
ついでにいえば、それまで存在しなかったものが木の組み合わせ、木の加工によって人間の形になってあらわれてくるのが「人形」である。
だから、歌は「ことば」によってあらわれてきた人間の「形」なのである。
「歌」は存在しないものを「ことば」で「生身の身体」のように浮かび上がらせたものである。「存在する感情」をそのまま書くのではなく、存在しなかった感情をことばによってつくりだしてこそ「歌」になる。そのつくりだした感情によって「生身の身体」を感じさせてこそ「歌」なのだ。
そして、その「ことばによる生身の身体」(これは、矛盾しているね。矛盾しているから思想であり、肉体であるのだが)が「歌」なのだ。これでは、同義反復になってしまうので、私はそこに「変化する/あらわれる」という動詞を紛れ込ませるだが……、わかりきったことを、わかるようにいうには、同義反復しかない。
飛躍して、こう言ってしまえばいいのかもしれない。
時里は、「歌を紡ぐ」ということばの運動を語るふりをして、その「語る」ということを「詩」にしている。語るという運動、語るときのことばの変化のあり方を詩にしている。「何を」書くかではなく、「どう」書くか--これが時里の詩の「肉体(思想)」の根幹である。
「もの(生身の身体)」ではなく「こと」。「こと」とは「変化」である。関係が「どう」変わるかをことばにすると、そこに「こと(事件)」があらわれる。
時里は、ことばの運動そのものを詩にしている。「語る」を詩にしている。それは「歌を紡ぐ」のと同じように、作者の「感情」とは無関係なことである。感情と無関係というと言いすぎになるのかもしれないけれど、少なくとも「生身の身体」とは無関係である。ことばにはことばの身体があり、それが自由に動いて、その動きが何らかの「運動」を生み出すことができれば、それが詩であり、歌である。ことばの運動、ことばの身体の動き--それが、見えればいい。それに、触れることができれば、それが詩、それが歌。
でも、ことばって、触れないねえ。見えたとも思っても、そんなものは錯覚かもしれないねえ。つかんだと思っても、それは手の中(意識という手の中、あるいは自分のことばという手の中--という具合に比喩になってしまうしかないのだが)をすりぬけていく。かわりに、そこに「活字(ことば)」が残されている。
それは実体? それとも仮象?
わからない。わからなくたって、いい。私は、そう思っている。ひとの考えていることなんて、わかりっこないのである。わかったつもりになるだけなのである。私は、こういうことばを書く「時里」という人間がいるんだなあ、と「わかる」。時里には会ったことがないので、ほんとうに存在するかどうか知らない。もしかしたら誰かが「時里」という名前をつかってことばを動かしているだけなのかもしれない。そうだとしても、そこにそういうことばの運動をさせる人間がいる、ということが「わかる」。
なぜ、それが「わかる」かといえば、そうしたことばの運動は私の動かしていることばとは違うからである。ことばの「肉体」が違う。言い換えると、その「全部」を私のことばでは追いきれない。つかみつれない。「誤読」するしかない。だから、そこに「ことば」があり、ことばがあるかぎり、そのことばを動かす人間がいる、ということが「わかる」。
なんだか、めんどうくさいことを書いているね、私は。時里のことばの運動に汚染(感染?)されてしまったのかなあ。
*
「ロッジア」には時里の歌も発表されている。
円周率をしづかにタイピングするサルのなかに棲むわたしくしが戻らない
ふる硝子ふる雨の滲むフィルム 路地裏でミシン踏む母を呼ぶ声
ことばのなかにある「無音」の動きが非常にリズミカルだ。おもしろい。「無音」というのは、ほんとうはどう呼ぶのかわからないのだが、たとえば「タイピングする」の「す」の音、私はこれを「母音」をほとんど欠落させる形、「S」の擦過音だけで声にしてしまうのだが、その繰り返しがつくりだす「五七五七七」からずれていく響きが、とてもおもしろい。(私は音読はしない。黙読だけなのだが、無意識に発声器官と耳が動いて「無音」を肉体で感じてしまう。)
別な言い方をすると、いまかかげた二首。これを「歌会始」のように朗々と音を引き延ばしながら歌うとすると、変でしょ? そういう古来(?)の歌とは違った「音楽」が時里の歌にはある。
これはまた、別の機会に。
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