西脇順三郎の一行(83) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(83)

「壌歌」(Ⅱ)

ミョーガをにた汁をかけ                      (95ページ)

 西脇の詩には野菜がよく出てくる。そしてその野菜は、私の感覚では青果店で売っている野菜ではない。畑になっている野菜、それをとって食べる自給自足の野菜である。
 この行のあとは「ウドンをたべるころは」とつづくので、ミョウガはウドンの薬味であることがわかる。ただし、それは出汁に散らす感じの薬味ではない。そういう洒落たことはせずに、出汁といっしょに薬味のミョウガを煮てしまっている。これは田舎ではよくやることである。百姓の暮らしではよくやることである。(というのは、私の体験である。私の家では刻んだミョウガをあとから薬味に散らすというようなめんどうなことはしなかった。)
 西脇の詩には、文学的(教養あふれる)会話がたくさんあるが、それと同時に、この行のように野性的な暮らしのことばや風物がよく出てくる。その二つは拮抗して不思議な「音楽」になる。手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いは、異質な「もの」の出会いだが、西脇の書いているのは異質な「世界/文体」の出会い/衝突である。
 「文体」というのは私の「感覚の意見」では、ひとつの「音楽」である。だから異質な文体の出会いというのは異質な音楽の出会いでもある。クラシック音楽と民謡が出会うように、違う性質の(違う歴史の)音楽が衝突する。
 それがとてもおもしろい。