「《秋の歌》」
乞食が一度腰かけたぬくみを
この一行のなかでは「肉体」が不思議な形で動く。「乞食が一度腰かけた」というのは目で見た姿である。あるいは乞食が「腰かける」という動作(運動/動き)である。それは詩を書いている人からは「離れた感覚」である。
ところが「ぬくみ」はそうではない。誰かが腰をおろしたその場所に残る「ぬくみ」は触れてみないとわからない。そして、このことは「触れる」ということの不思議な哲学を明るみにする。「触れる」ことは「他者」を理解することなのである。自分の「肉体」そのもに取り込み、そこにあったことがらを「わかる」ことなのだ。
目で見て「わかる」から、手で触れて「わかる」へかわる。視力と触覚が融合して、新しい何かを瞬間的に噴出させる。西脇の肉体の中には、こういう「自然の野蛮」が動いている。知性のことばと同時に肉体の野蛮が動き、ぶつかる--この衝突の音楽が西脇の「文体」を動かしている。