西脇順三郎の一行(76) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(76)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

ピカソは土人がなめる石の笑いに                  (88ページ)

 「なめる」という動詞が強烈に動く。その前の「ブレークはトラの笑いにもどり/ジョイスはイモリの笑いにもどり」と比べると、ピカソの一行の不思議な強さの印象がさらにあざやかになる。
 この一行は、

ピカソは土人がなめる石の笑いに「もどり」

 と、「もどり」が省略された形とも受け取ることができるが、「なめる」がそういう「形」を拒絶している。ある予定された軌道を逸して動こうとしている。その力に押されて「もどり」ということばは消えてしまったのだろう。
 「なめる」は「もどる」とは逆の動きなのだ。引き返すのではなく、より積極的に近づいていく。近づいていくを通り越して、そこにあるものを自分の中に入れてしまう。「なめる」は「食べる」とは違うのだけれど、舌が触れるということは半分口の中に入るということである。
 「もどる」は自分があるもののなかへ入っていくのに対し、「なめる」はあるものを自分のなかに入れること。「肉体」が逆に動いている。
 奇妙な言い方しかできないのだが、「もどる」と「なめる」を比較するとき、「もどる」は男性的、「なめる」は情勢的な感じがする。なかへ入っていく男、なかへ受け入れる女--そういう対比もついつい考えてしまう。