西脇順三郎の一行(75) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(75)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

やせた鹿はモナ・リーザのように                  (87ページ)

 この一行はきのう取り上げた一行に比べると「意味」が不完全である。「ように」のあとの用言がない。引き継ぐ動詞がない。そのために、この一行だけでは意味がわからない。
 鹿とモナリザ。まったく無関係なものが一行のなかで「用言」を遠ざけられたままであっている。そのために新鮮な印象がする。
 しかしただそれだけではない。鹿を形容する「やせた」が不思議な効果をもっている。「やせた」ということばは反射的に「ふとった(ふくよかな)」ということばを思い出させる。「乏しい」「弱い」というような類似のことばも呼び寄せるかもしれないが、モナリザの丸い頬の感じなどが「やせた」によって自然にスポットを宛てられたような、意識に浮かんでくる。
 手術台の上のミシンとこうもり傘のような、かけ離れたものでありながら、かけ離れること(対立すること)が、逆にことばをどこかで接続させている。その接続があるから、それにつづいて「古典的な微笑をかくして」の「微笑」が、読者を安心させる。


2014年02月01日(土曜日)

西脇順三郎の一行(77)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

ピカソは土人がなめる石の笑いに                  (88ページ)

 「なめる」という動詞が強烈に動く。その前の「ブレークはトラの笑いにもどり/ジョイスはイモリの笑いにもどり」と比べると、ピカソの一行の不思議な強さの印象がさらにあざやかになる。
 この一行は、

ピカソは土人がなめる石の笑いに「もどり」

 と、「もどり」が省略された形とも受け取ることができるが、「なめる」がそういう「形」を拒絶している。ある予定された軌道を逸して動こうとしている。その力に押されて「もどり」ということばは消えてしまったのだろう。
 「なめる」は「もどる」とは逆の動きなのだ。引き返すのではなく、より積極的に近づいていく。近づいていくを通り越して、そこにあるものを自分の中に入れてしまう。「なめる」は「食べる」とは違うのだけれど、舌が触れるということは半分口の中に入るということである。
 「もどる」は自分があるもののなかへ入っていくのに対し、「なめる」はあるものを自分のなかに入れること。「肉体」が逆に動いている。
 奇妙な言い方しかできないのだが、「もどる」と「なめる」を比較するとき、「もどる」は男性的、「なめる」は情勢的な感じがする。なかへ入っていく男、なかへ受け入れる女--そういう対比もついつい考えてしまう。