西脇順三郎の一行(57) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(57)

 「えてるにたす Ⅰ」

シムボルはさびしい                       (69ページ)

 長い作品なので、今回も1ページ1行を選んで感想を書いていく。
 詩は「書き出し」がすべて。突然始まって、それが次のことばを生み出していくだけである。結露(?)というものは、ない。「意味」というものは、ない。あるとしたら書きはじめた瞬間だけにある。
 西脇は、このあと「言葉はシムボルだ/言葉を使うと/脳髄がシムボル色になって/永遠の方へかたむく」とつづける。ことばが交錯しながら広がっていく。
 「脳髄がシムボル色になって」の「色」のつかい方がおもしろい。どんな色かさっぱりわからない。--ほんとうは、この1行を選ぶべきだったかもしれない。
 というのは、そういう「色」のないものを「色」と呼ぶところからはふたつの「感想」を引き出すことができるからである。
 色ではないものを色と呼ぶ--それは西脇にはその色が見えた。西脇は絵画的な詩人である、というのがひとつ。
 もうひとつは、色ではないものを色と呼ぶのは、色を書きたかったからではなく、色ではないものを書きたかったからである。「シムポル色」という音を書きたかった。無意味なもの、音を書きたかった。音を中心に西脇はことばを動かしている。つまり、音楽的な詩人である。
 さて、どっちを選ぼうか。--「意味」というのは、正反対のことを平気で呼び寄せながら動いてしまうので困ってしまう。

 このページにある「夏の林檎の中に/テーブルの秋の灰色がうつる」というのも、とても美しい。この美しさは、また絵画的な印象が強い。
 けれどもこの2行からだって、「音楽」を中心にした「意味」をつくりあげることができる。
 「林檎の中」の「中」は内部ではなく、表面、皮の中にという意味である。表面と意味を正確にするのではなく「中」ということばをつかっているのは、その方が音として美しいからである。「林檎」という短い音と「テーブル」というのばした音を含む長い音の対比にも音楽がある。
 いや、「赤い皮の林檎」とは書かずただ「林檎」と書き、色は「灰色」だけを書くことで、そこにある色の変化を連想させるその視点は絵画的である、と反論もできる。
 
 詩はやっかいである。いや、意味はやっかいである。