西脇順三郎の一行(53) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(53)

 「最終講義」

 この去る影は枯れた菫の茎に劣る                 (65ページ)

 西脇の好きなもの。思い浮かぶのは茄子と菫。ともに紫のものだ。
 この1行では、紫の花はわきに引く形で登場しているが、それが影と非常に似合っている。こうした隠れた色と色の響きあいを読むと、西脇はたしかに絵画的な詩人であると思う。(「たしかに」とことわるのは、私は西脇は絵画的というよりも音楽的な詩人だと思っているのだが、一般的には絵画的といわれることが多いからである。)
 影は「黒」のようであって黒ではない。その黒は影を受け止める「もの」の色とまじりあう。「もの」の色を静かにさせる。その静かな色が枯れた菫に似合う。
 と、書くと、西脇は「枯れた菫の茎」と書いているのであって、「枯れた菫(の花)」とは書いていないという声が聞こえてきそう。
 そうだね。「枯れた菫の茎」、その「茎」の音が乾いていて面白い。
 で、私の意識のなかでは「枯れた菫の茎」が「枯れた紫の茎」という具合にも変化する。「絵画的」な西脇--と思ったとき、そこに「紫」があらわれ、ことばをのっとっていく。そうして「か」れたむらさ「き」の「く」「き」という「か行」が響く。書かれていない音を聞きとって「音楽的」とも感じてしまうのだ。

 余談だが。
 中井久夫はことばのなかに色が見えると言っている。ランボーは母音を色で区別していた。ナボコフもことばに色を読み取っていた。私が「菫」ということばから「紫」を感じたのは「色が見える」というよりも連想の類だが、西脇はことばに色を見ていたのだろうか、とふと考えてみた。