西脇順三郎の一行(47) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(47)

 「失われた時 Ⅳ」

永遠の追憶に人間をぬらすからだ                  (59ページ)

 西脇のことばには「渇いた」印象がある。しかし、西脇は同時に「しめった」感じも書いている。「ぬらす」「ぬれる」ということばも西脇は好んでつかっている--と思う。具体的に数を数えたわけではないが。たとえば「南風は柔い女神をもたらした。」ではじまる「雨」は「ぬらした」の行列である。
 ただし、西脇の「ぬらす/ぬらす」は「水分がつく(おおう)」というのとは少し違うような感じがする。「雨」には「噴水をぬらした」と「ぬれる」はずのないものが「ぬれ」ている。
 「ぬらす」には「濡らす」とは別に「解らす」ということばもあるが、この「解らす(解けままにする、ほどく)」とどこかで通じている。
 人間は「永遠の追憶」に触れて、ほどけたままになる。そうして「ぬらり」と輝く……というような感じへと連想を動かす。
 「ぬれる」から「なめらか」「つややか」「かがやく」へと連想を広げると、なんだか色っぽくなるね。「永遠の追憶」のなかで、人間は色めくのだ。
 だからというわけでもないのだろうけれど、この後西脇のことばは「男は女の冬眠のための道具にすぎない」というようなところへ進んで行く。