西脇順三郎の一行(46) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(46)

 「失われた時 Ⅳ」

室内音楽の国づくしはエド人のエピックだ              (58ページ)

 この1行は中途半端な行である。--というのは私だけの印象かもしれないが、私は前半の「室内音楽の国づくしは」という部分が好きではない。それに先行する行の、文学の断片の接触を「室内音楽」と定義しているのかもしれないが、「室内音楽」が「音楽」のように響いてこない。「意味」になっている。「比喩」になっている。「国づくし」が「説明」になっている。「比喩」を「説明」で補ってどうするのだ、とちょっと不満を言いたいような気分になる。
 けれど、その後の「エド人のエピックだ」で私は飛び上がってしまう。「エド」は「プリアプス」「ヘベルニヤ」「ドブリン」のような外国の地名? (プリアプスなどが外国の地名かどうかは私は知らないのだけれど)。
 「エド」は「江戸」だろうなあ。「エド人」は「江戸時代の人」。突然、こんなところに出てくる。でも何のために? 私の「直感」では「エピック」という音を導くためにである。
 それまで書いてきた行を西脇は「エピック(叙事詩)」として提出したい。叙事詩であると示すために「エピック」ということばを書きたいのだが、そのまま書いてしまってはあまりにも「説明」になってしまう。だから、「説明」をごまかすために、読者を混乱させるために、わざと「エド人」と書いている。
 この「わざと」に「現代詩」の「現代」の意味があるのだが、その「わざと」を「エド人」「エピック」という頭韻の音楽として書くところが、あ、西脇だなあ、と思う。
Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社