「第三の神話」
窓から柿の木を上からみおろすのだ (51ページ)
この行の2行前に「二階の書斎にあがつた」という行がある。窓は二階の窓である。柿の木は低い。それを二階から見ると、必然的に「上から」みおろすことになる。
でも、「窓から」「上から」は変じゃない? こういう「重複」は不経済じゃない?
というのは「頭」が整理して口走る苦情。
私はここでは、とても奇妙な経験をした。
「上から」ということばに触れた瞬間、私自身の「肉体」がすーっと上の方にひきあげられたのである。「二階」より上、というのではなく、方向として「上」へ。
きのう書いた「落ち葉」--それは、そのまま「もの」の時間の経過をあらわしていた。「落ちる(落ちた)」を先に見て、その「落ちる(落ちた)」のあとに「主語」があらわれてくっついた感じ。「窓から」みおろすだけではなく、その「窓」が「上」へとかわって(明確な上下の位置関係になって)、みおろす。
ここでは「動詞」がリアルに再現されている。
意識の動きが、そのまま「ことば」の運動となって書かれている。
西脇の詩は、ことばが「行わたり」をして、意味が「脱臼」させられたような印象を呼び起こすが、そこでは意味は脱臼させられているかもしれないが、意識の動きそのものは時間をていねいに再現している。何かが起きるときの、その時間の経過をそのまま手を加えず、順番に書いている。その書き方のスピードがとても速いので、「流通言語」(流通文法)から見ると、「あれっ」という感じになるのだが。