「第三の神話」
あの小間物やさんと話をしている (50ページ)
この一行は、ふつうは「あの小間物屋さんと話をしている」と書くと思う。「小間物屋」でひとつのことばである。ところが西脇は「屋」を「や」と書くことでひとつのことばをふたつに脱臼させている。
これを読むと、まず「小間物」が目の前に浮かぶ。そして、そのあとに男(たぶん)があらわれる。この「時差」のようなもの、そこに「時差」があるということのなかに西脇の詩がある。
それはたとえば、「落葉」ということばがあるが、それは単に落ちてくる葉、あるいは落ちた葉と理解してしまうのを、もう一度ことばの成り立ちとして見直す仕事に似ている。
--あ、ややこしいことを書いてしまったが……。
「落ち葉」の場合、ひとはまず「落ちる(落ちた)」という「動詞」を見る。それからそのあとに「落ちる(落ちた)」ものが葉っぱであると理解するというのに似ている。「落ち葉」は「落ちる(落ちた)」+葉--そのことばは認識の順序に従って動いているのである。
「小間物屋」も「小間物+屋」という動きを再現しているが、漢字で書いてしまうとどうしても「ひとつ」につながって見えてしまう。「小間物+や」にすると、それは違って見える。「小間物」+「(売る)おとこ」という具合に「動詞」が割り込んできて、ことばが認識通りに動いているなあということがわかる。
こんなことはわからなくてもいいことなのかもしれないが、そういうわからなくてもいいことをわかってしまうのが詩なのである。