西脇順三郎の一行(37) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(37)

 「第三の神話」

化学はもう物理学として説明する方がよい         (49ページ)

 この場合の「物理学」とは電子、原子の世界である。化学も素粒子の運動に還元してみつめる方がいい。--意味の強い一行だ。
 この一行が好きなのは、「現象」を「運動」として把握する西脇の姿が見えるからである。そしてその運動は「意志を持たない運動」である。自律した運動である。

 ことばにも、そういう運動があるのではないだろうか。--というのは飛躍した空想だが、

詩はもう物理学として説明する方がいい

 と西脇は言っているのではないのか。そう感じるのである。(これは私の「感覚の意見」であって、何の根拠ももっていないのだが……。)「意味」ではなく、ことばとことばが引きつけあったりぶつかったりして自在に動いていくのが詩。自在といっても、ことばのなかにある素粒子によって運動は決められているのだけれど。
 私はわけのわからないことを書くのが好きなので、まあ、こんなふうに書いておく。ついでに、ことばの「素粒子」とは何かというと、「音」(音楽)であると私は思う。で、そのことを強引に発展させて、私は

詩はもうことばの物理学(ことば動詞の和音)として説明する方がよい

 と勝手に読み替えるのである。
 そして、それを実際にできないものだろうか、と考えるのである。