西脇順三郎の一行(36) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(36)

 「第三の神話」(「第三の神話」は長い作品なので1行だけ選ぶのはつらい。現代詩文庫では48ページからはじまる。1ページに1行ずつ選んでいく。)


    あゝそれからまた                     (48ページ)

 この一行はイメージを持っていない。「絵」を持っていない。「第三の神話」は「秋分の日は晴れた/久しぶりに遠くの山がはつきり見える」で始まる。そして、見えたものを次々にことばにする。その見えたものは現実の風景とは限らない。漢詩のなかの風景、漢詩がことばで書いている風景も含まれる。ことばがつくりだす「イメージ」も含んでいる。
 ところが「あゝそれからまた」には、そういうものがない。
 --と、書いて、私は疑うのである。それはほんとうか。ほんとうに私には「絵」が見えないか。
 実は見える。はっきりと見える。
 何かを「見ている西脇」が見える。漢詩の「ことば」のなかの風景を見ながら、現実の風景を見ている、つまり風景を二重に重ね合わせている西脇が見える。
 ふたつの風景を重ねる、出会わせる、ということをしながら、それを「ことば」で動かしていく西脇が見える。あるいは、そういう「ことば」の動きが見える。
 現実の風景と漢詩の風景を何行か重ねると、「イメージ」が多くなりすぎる。動かなくなる。それを、何の意味もないことば「あゝそれからまた」という音で動かす。これは仕切りなおしのようなものだが、この意味の「ゆるんだ」音がなかなか楽しい。意味がゆるむから、意味を運ぶ「絵」が消えて、そこに西脇が現れる--という感じがする。