西脇順三郎の一行(35) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(35)

 「より巧みなる者へ」

川のわきで曲つた庭がある

 西脇は「曲がる」ということばが好きである。西脇にとって「まっすぐ」には味がないのかもしれない。
 それにしても「曲つた庭」というものは、ない。「庭」は曲がらない。
 けれど、なぜだろう、「川のわきで曲つた庭がある」という1行を読むと、くっきりと情景が浮かぶ。私は「誤読」する。川が曲がっている。それが庭に接している。庭を囲むように川が曲がっている……。
 もっと言いなおすと。
 川に沿って、私の「肉体」は動く。「川のわきで曲つた」とということばといっしょに私は川のように曲がる。私はこのとき「川」なのである。川になって、曲がる。川には、何か人の動きを刺戟するものがあって、つまり川は渡るか、それに沿って歩くしかないものである。渡らないかぎりは、川に沿って歩く。だから、ときには「曲がる」。でも川に沿ってという行為そのものは曲がらない。つらぬかれる。
 そういう人間の「肉体」の動きがあって、その動きに連れて「庭」にであったとき、曲がるのは川ではなく庭なのだ。歩く(動く)人にとって道はどんな径路であろうと「まっすぐ」でしかない。
 「曲がる」ということばを西脇がつかうとき、西脇はほんとうは「曲がる」ということをしていない。そこに「曲がる」を貫く「まっすぐ」をみている。「曲がる」のなかにこそ、ふつうではとらえることのできない「まっすぐ」がある。「寂しい」と直結する「道」がある。

 私の書いていることは「矛盾」だが、そういう「矛盾」を誘う響きが西脇のことばにある。


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谷内 修三
思潮社