西脇順三郎の一行(23) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(23)

 「近代の寓話」

考える故に存在はなくなる

 「我思う、故に我あり」ということばが思い浮かぶ。「思う」は「考える」に似ている。「思考」ということばは「思う」と「考える」を結びつける。「我考える、故に我あり」と言い換えることができるかもしれない。
 そして、そこからこの一行へ引き返すと……。
 「考える故に私という存在はなくなる」。
 何だか矛盾する。
 「意味」が通るようにするには、たとえば、「考える、そのとき考えられた対象は存在しなくなる」。なぜなら、存在(対象)は「考え」のなかに組み込まれ、そこには考えが存在するだけだからである。
 あるいは逆に、「考える、そのとき私という存在は対象のなかに組み込まれ、対象のなかで動いている。ゆえに私は存在しなくなる」。
 どっちでもいい。
 それよりも、私は、私が書いた「存在しなくなる」ということばよりも西脇の書いている「存在はなくなる」という短い音がとても気に入っている。そして、それが「存在しなくなる」ではなく「存在はなくなる」という短い音、「な」がより近接して感じられる音のために美しく響いていると感じる。その美しい響きのために、「意味」を追いかける気持ちもどこかへ消えてしまう。