西脇順三郎の一行(15) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(15)

 『旅人かへらず/一〇』(24ページ)

葉の蕾が出てゐる

 これは「変な日本語」である。花の蕾とは言うけれど、葉の蕾とは言わない。言うなら葉の「芽」だろう。--そして、言わないのだけれど、言っている「こと」が「わかる」。「まちがい」なのに、「ただしい」何かが「わかる」。
 ことばは、とても奇妙なものなのだ。
 「ただしい」ことを言えば必ず通じる(わかる)かというとそうではなくて、「まちがい」の方が正確に通じる(わかる)ということもある。「蕾」の方が葉がぱっと広がる華やかな力を感じさせる。西脇は、そういうものを見ていたのだと「わかる。)。
 ことばは、「わかりたい」ことを「わかる」ものなのだ。「わかりたい」ことを選んで「わかる」ものなのだ。
 で、この「断章」には、「葉の蕾」のように、それは「いいまちがい」じゃないかというわけではないけれど、何か「まちがい」のようなもの、西脇だけの「思い込み」のようなものが書かれているね。
 「枯木にからむつる草に/億万年の思ひが結ぶ」の「億万年」などは西脇がそう思っているだけで、「事実」とは限らない。でも、そういう「思い込み(ただしくないもの/まちがい)」が詩なんだね。
 それは「常識」とは「断絶」していて、断絶しているから「淋しい」感覚。だから「詩」。