前田経子『富士』にはときどき不思議な行が出てくる。「富士」の書き出し、
かんだ とたん
舌の先から飛び出してくる
さくらんぼの種
まぶしいトパーズいろ
この4行はとても美しい。さくらんぼの種の色が見える。「舌の先から飛び出してくる」という動き(動詞)が楽しい。ほんとうは飛び出してくるのではなく、人間が飛び出させるのだけれど、その主語と述語、主語と補語(目的語?)の関係が不思議な具合にいりみだれ、交代する。そのとき、なんだかさくらんぼの種になったような感じになる。気持ちになる。「かんだ とたん」という1行目の、「意味」でありながら「意味」よりも「音楽(リズム)」を強調したような楽しさが肉体をくすぐり、一種の笑い(?)のなかで人間とさくらんぼが入れ替わってしまうのかもしれない。
この4行があまりに美しいので、前田自身もとまどったのかもしれない。詩は、その美しさをそのままどこか新しい世界へつながるというよりも、そこでほうりだされて、まったく違う世界へ飛躍してしまう。2連目以降は孫(?)の「まさくん」が「主役」になる。うーん、ちょっとついていけないなあ、こういう展開は。と思うのだけれど、その「まさくん」が、
左手に 鉛筆を握る と
広告の裏に漢数字の八の字
コレナーニ?
まさくんのおはし! ブー
横からママが
ふじさん! ピンポーン
富士さんだったら もっと大きく描かないと
遠くから見てるんやねん
しばらくして
太い幹に 小枝が一枝
しっかりついている 五べんの一輪
さくら!!
ピンポーン
どこでみたのだろう
右 遠景の富士
左 近景にさくら
最後の2行が、とても不思議。とても美しい。しかもその美しさのなかには、「知識」のようなものがある。「遠景/近景」ということば、世界をそういうことばでとらえることを「まさくん」は知らないだろうけれど、ことばではなく「目」で知っていて、それが前田を動かしている。「まさくん」の目が前田の「肉体」の中へ入ってきて、前田の目そのものになる。そのとき前田は、前田の「肉体」が覚えている「遠景/近景」ということばを思い出すのだが、それがすーっと「まさくん」の「肉体」へ入って行って、そのことばで「つながる」感じがする。
「まさくん」はまだ「遠景/近景」ということばを聞いても、変な顔をしてみつめるだけかもしれないけれど、それはいつかはきっと「遠景/近景」の「絵」として結晶するだろうなあ、と納得してしまう。人間の「肉体」と「ことば」は奇妙な具合につながっているのだなあ、不思議な具合に他人をととのえるのだなあと感じる。
さて、このつながりを何と呼ぼう。
まばたく目に
すっと のびる白い道
まさ君の果てしない
まほろば
「まほろば」か。そうなんだなあ。「まほろば」というのは「よいところ」くらいの「感じ」。(私は「まほろば」ということばをつかわないので、「意味」を断定できないのだが……。)
何か、まだ「具体的」ではないけれど、ぼんやりと美しい何かが「まさくん」にはわかっていて、それへ向かって「肉体」が動いているんだなあと前田は感じているのだと思う。そして、その美しい何かへ向かって動いていく「肉体」の動きそのものを「まほろば」と言っているのかもしれない。
--というようなことを考えると。
最初に引用したさくらんぼの種、前田の「肉体(口/舌の先)」から飛び出した「トパーズいろ」が「まさくん」の「遠景/近景」のようにも感じられる。小さな富士、大きな桜の花--そのむすびつきのなかに「遠景/近景」という「知識」の「トパーズいろ」の「種」が光っている。
そんなふうにも思えてくる。
あ、でも、こういうことはことばにして追いかけすぎると、きっと違う性質のものになってしまうなあ。「意味」になって勝手に走りだしてしまうなあ。
私は、その「意味」へはいかずに、ただ、前田の「肉体」と「まさくん」の「肉体」がまじりあっているのを感じていたい。前田が「まさくん」の「肉体」になって、「まさくん」の知らない「まほろば」を見ているのを感じたい。きっと「まさくん」はいつか、前田の見た「まほろば」へたどりつくということを夢見ていたい。
その「夢」(ふたりの「肉体」が重なる)というのが、私の「まほろば」だなあ、きっと。
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谷内 修三 | |
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