季村敏夫「ひとつかみの風」 | 詩はどこにあるか

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季村敏夫「ひとつかみの風」(「纜」4、2013年08月31日発行)

 季村敏夫「ひとつかみの風」は不思議なかなしさがある。「におい」のかなしさがある。

ゆうぐれの運河は臭い
すれちがう息は酒臭い

自転車の微笑み
のこされた息が転がる

くずやの金さんがガラスの向こう
もうペケや
指で合図
頭には放射線照射のためのバツ印し

それからゆらいだ五月
ひとつかみの風となり
金本英一は旅立った

あっけなくくずれる
くず鉄ひとふさ

キロなんぽやねん
ありやなしやの
風の挨拶

息子に先立たれたじいさん
ひん曲がったくちびるを突き出し
隣りの塀に立小便

工場にトイレはあるのに
体温体臭
出るはでるは臭い湯気

 たとえ工場にトイレがあったとしても、ひとは時には立ち小便がしたい。隣の塀に小便をかけてみたい。それは「生理現象」ではなくて、むしろ「かなしみ」の現象である。
 「におい」がかなしいのは、そこに「体温」があるからだ。「肉体」があたためた何か、あたためずにはいられない「肉体」の力。それがあるからだとわかる。
 そして、それは防ぎようがない。鼻をふさぐことはできるが、ふさいだままではいられないからね。なんだか、無防備な肉体に入り込んでくる。それも「頭」ではなく、違った部分に入り込んでくる。
 「かなしい」のは、だから「頭」とは違った部分である。
 立ち小便をする「じいさん」のかなしみは、「頭」ではなく、「肉体」で感じる何かである。それは、あるいは息子が死んだというかなしみではなく、息子は死んだのに自分は生きているというかなしみである。
 その「生きている」を、長々とでる(でてしまう)小便、その温かい「におい」で感じてしまうかなしさ。
 それに対してひとは何ができるか。
 何もできない。
 季村はただそれを見つめている。見つめるとき、それをことばにするとき、季村は「じいさん」になり、立ち小便をしているのである。重なってしまう。そして「肉体」で「かなしみ」を感じる。「におい」がそのかなしみのなかに入ってくる。



 辛夕汀「登高」という作品の訳詩が同じ号にある。

山には白く雪が積もっていた。

白帆ほのかに黄海に浮かび
あたたかい陽ざしが秀麗な蘆嶺山脈に照り映える
午後--

私は岩に腰かけて
香ばしい松の実を
一つ
二つ
一つ 二つ
剥いては食べた。

私は急に山鳥のように身が軽くなり
私は急に山鳥のように飛びたくなった。

あの平穏な青い空を--
耐えがたいまでに平穏なあの空の下を--

 最後の2連が、どう説明していいのかわからないが、気持ちがいい。「急に」が「わかる」。二回「急に」と言いたい感じがわかる。そして、「あの空の下を」の「下を」が美しいなあ。空ではなく、「空の下」を飛びたい。舞い上がるのではなく、飛びながら、なつかしい街に近づいてゆくのだ。視線が、いままで自分がいた街に近づいていく感じがとてもいい。
 こんな比較というか結びつけは変かもしれないが……。
 なんとなく、あ、これは「じいさんの立ち小便」を見ている季村の視点に似ているなあ、近いものがあるなあ、共通のものがあるなあ、と感じる。離れているのだけれど、離れたままではない、近づいていく感じが似ている。距離が縮む感じが似ている。

豆手帖から
季村 敏夫
書肆山田