阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(2) | 詩はどこにあるか

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阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(2)(思潮社、2013年09月20日発行)

 川島洋の詩集で「声」について触れたので……。
 もし阿部嘉昭『ふる雪のむこう』で阿部の正直について語るなら「ユ」という作品を私は取り上げる。ここには「声」というより、「耳」がある。「耳」で聞く「音」の重なり合い、「和音」の楽しみ、つまり「音楽」がある。

カンジをかたかなにするとどうなるか
ちらちらユれるとかけばユもアヤしいのだ

ユけむりのようなこのからだには
アイがならんでタホウコウをコらす

オクビョウなけむりのソコのユ
カハンシンからワくソコヒがあるらしイ

ウチュウのカオのまんなかのハナが
みることにさきがけてダンメンなのは

おもいでのなかのトオトいマルタか
ユのカワをきえながらあふれて

 「ユ」は「湯」であるか、それとも「(経)由」であるか。「ユけむり」ということばからは「湯」が具体物として見えるが、それは仮の対象物であって、何かを見る(把握する、そのためにことばをつかう、分かりやすくするために漢字で書き表す、あるいは意味以前のものをつかむとるために音に分解する方法としてひらがなをつかう、あるいははぐらかすという目先の変化のためにカタカナをつかう--という「方法」を経由する)ことは、自分から出て行き、さらに自分の中に引き込むということである。
 そういうことは自分が自分でなくなるという「危険」をともなう。あるいは喜びをともなう。それを「肉体」のどの器官でより強く味わうか。
 この作品には「耳」がある。
 1連目は「漢字」と「感じ」のだじゃれで始まり、「湯」を「揺」らすで「頭韻」を踏む程度だが、この、ちょっとがっかりするような助走のあとの2連目、3連目が、とてもいい。
 タホウコウのコが凝らすという動詞の最初の音「コ」と響き合うのだが、それは実はそのまえの、ひらがなで書かれた「このからだ」の「こ」と響きあっている。
 「こ」の音は、「ソコ」「ソコヒ」と変化するが、そのとき、そこにKとHの子音が交錯する。この子音は、発音するひとによって性質が若干異なるが、少し兄弟のようなところがあって、絶妙な「和音」のようなものを響かせる。「タホウコウ」は「多方向」(他方向)と感じで書くより、美しい。「労働問題」を「ろうどうもんだい」と書くと(読むと)美しくなるようなものである。
 「こ」からはじまった音楽に、KとHの子音の揺らぎがあるからこそ、「カハンシン」から4連目の「カオ」への動きも自然だ。「顔」は「かほ」でもある。ことばの奥にしまいこまれている「ことばの肉体」がぐいと「いま/ここ」を突き破ってくる。ことばがおとになり、音がことばになり、あわさって、ひとつになって動く。「カオ」というのは、読み方次第では「こ」になる。「こ」と聞こえる。「耳」が裏切られているのか、あるいは眠っていた「耳」が覚醒したのか、よくわからないが、そういうことが起きる。そこからはじまる「肉体」への刺戟が「音楽」である。「音楽」のなかで「意味」とは違った「意味以前」に触れる。そして動きだす。(高揚すると、舞踏、ダンスになるのだが、そこまでは書かない。書きたいことが違うので……)
 それは暴走し(つまり、「ことばの肉体」が自律して動き)、「あるらしイ」の「イ」というわけのわからないもの--阿部にはわかるのだろうけれど、私にはわからないものへと結晶する。「あるらしい」の「い」に「漢字」をわりふることは私にはできない。けれど「感じ」なら、「あ、何か変」という「感じ」、「これはなんだろう」という「感じ」はわりふることができる。
 そのとき1行目の「カンジをかたかなにするとどうなるか」は「感じをかたかなにするとどうなるか」ということばとなって襲いかかってくる。「意味」をはっきりさせる「漢字」ではなく、肉体の抱える「感じ」をかたかなにすると、どうなるのか。「湯」の「感じ」、「揺れる」の「感じ」「妖しい(怪しい? 奇しい?)の「感じ」。
 「感じ」は「あやしい」がそうであるように「形容詞」としてあらわされることが多い。「美しい」「悲しい」。「形容詞」は、そして「い」という音でおわる。その「形容詞」の「い」が--「形容詞」に通じる「い」が、「感じ」として「あるらしイ」になっている。その「感じ」を「漢字」にすれば「あるらし意」ということになるかもしれない。「意」は「意味」の「意」。「感じ」とは、ある種の「意味」なのだ。
 わっ、すごい。わっ、楽しい。わくわくするなあ。これから、さらにどんな暴走、暴発が起きるのか……。

 4連目の「カオのまんなかのハナ」はKとHにNが割り込んできて、別な音楽を誘い出す。--とほんとうは書きたいが、その4連目からは、正確に言うと4連目の2行目からは「音楽」は消えてしまって、かわりに「映像」のようなものが、つまりイメージが復讐してくる。湯煙の中にいる人間のぼわーっとした姿が「断面」とし浮かび上がり、音楽は「断念」されるのが、とても「残念」。
 「思い出」が「尊い」(阿部は「遠い」を意識したのだろうか、「トオトい」と書いている。「遠い」は「とほい」だからH音を復活させようとしているのかもしれない。けれどHがゆらぐのはKの発音に対してであって、TやMは、そこに紛れようがない。溶け込めない。
 最後には「湯の川」となって、音楽はどこにもなくなってしまう。
 少なくとも、私には、という意味だけれど。

 で、うーん、どうしてだろう、と振り返ってみると、いちばんおもしろい部分が「意」(意味)に結晶したということと関係があるかもしれないと思ってしまうのだ。「意味」を完結させないと詩にはならない。そういう「意識」が阿部のことばのなかにはないだろうか。「意味」は阿部にとっては「音」の交錯(音楽)のなかにはなくて、「映像」(イメージ)のなかにある。言い換えると、阿部は「視覚」で思考し、「意識」を動かす。阿部は「視覚型」の詩人なのである。
 そして、「視覚」を「意味」にしてしまう。「意味」が生まれてくるというより、「意味」に形成してしまう。そのとき、私は、なんとなく「頭」の「制御」(抑圧)を感じる。川の中にある温泉、湯煙が立ち(川の水で冷やされ、さらに冬なら冷気に冷やされ)、湯煙はもうもう。ぼんやりした人間の姿しか見えない。白ソコヒ(白内障)の視界に広がる世界のようだ。ぐいと近づき、顔をつきあわせれば、あ、こさはこれは阿部さんでしたかという具合に「思い出(記憶)」のひと(感情)があらわれたりする。
 うーん。
 わかるけれど、2、3連目の音楽はどこへいってしまったのだろう。なぜ音楽のまま、詩を暴走、暴発--ビッグバンさせてしまわなかったのだろうと私は疑問をもつのである。「頭」なんかたたき壊して、酔ってしまえばいいのに、と思うのである。
 「頭」の制御(頭による支配/統合)がないと世界は止揚(発展)していかない--というのが阿部の考え方なのだと、私はここでも感じる。
ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社