北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』 | 詩はどこにあるか

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北川朱実『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』(思潮社、2013年09月20日発行)

 北川朱実は人と会ったときにこころが正直に動く。『死んでなお生きる詩人』は彼女の正直がとてもはっきりと打ち出された評論集だった。『ラムネの瓶、……』でも、他人と出会ったときのこころの動きがいい。
 「字が書けそうだった」は直接他人と会うわけではないけれど、やはり他人と出会う詩である。

道を歩いていると
とつぜん家と家との間にさら地があらわれた

 「とつぜん」の「さら地」に、人はいないが、人がいないことによって、人がいる。そこに「人がいたのだ」という意識の目覚めがあり、その瞬間に北川は他人に出会う。他人に出会うから、ことばが動く。
 すぐに、「ことば」が出てくる。

そこに何があったか
言葉は降ったのか
何一つ思い出せなかった

 この「言葉」は少しめんどうくさいものを含んでいる。言い換えると、多様な「意味」を含んでいて、すぐにはそれを特定できない。特定できないのだけれど、そういう多様な意味をもっているということは、「肉体」がぱっとつかんでしまう。「肉体」が納得してしまう。「言葉は降ったのか」の「意味」もわからないが、あ、このさら地に誰かがいて、そのときのことばが形のないまま気配として感じられる。その不在のことばに対して呼び掛けても、不在であるから返答のありようがないのだが、その返答がないということも含めて「肉体」はそこにたしかに他人がいたかもしれないと感じる。北川の「肉体」から「他人」をもとめて動きはじめる何かがあって、それが、ここに動いている。そして「言葉は降ったのか」という、複雑な「意味」をもったことばとなってあらわれている。
 「何一つ思い出せなかった」と北川は、何かを「おぼえている」。「おぼえている」ことがあって、それがとこばになって思い出されないときの、いわは「記憶のさら地」みたいな感じが、人がいたはずの「さら地」と重なる。その重なりを、北川は正直にうごくのである。
 ここから、北川は「文字」と「記憶」というソクラテスも問題にしていることがらにちょっと触れて、そこからまた別の「他人」に出会う。他人を出会いに引っ張り込むという方が近いかもしれないけれど。
 
文字をおぼえて
過ぎたことを忘れることができなくなった

書かなければ
あったことの多くを忘れるという

遠く ギニアの奥地で
一つの文字も持たずに
五千年を生きた部族

彼らの前をとおり過ぎた人々の頭蓋は
洗われ
磨かれ

休館日の図書館みたいな木のうろに
ひっそりとしまわれているというが

 「文字を持たない部族」。彼らはしかしことばを持たないわけではない。書かない、記録し、それをつかうということをしない。ひとは、何かを体験しても必ずしもそれを記録しない。記録を消すということもあるかもしれない。たとえば、家を壊し、そこを「さら地」にする。
 でも、「さら地」はほんとうに「さら地」になるのか。だいたい「さら地」の「地」はそこに最初からあったのであって、その上を人と建物か横切っていったにすぎないと考えると、それを「さら地」と呼ぶのも何か奇妙な感じがする。
 「さら地」には、すでに「ひと」が刻印されている。それがどんなに無人になろうとも。
 その「無」が、北川を揺さぶる。「無」によって、北川の「余分なもの(?)」が削ぎ落とされ、むき出しの「肉体」になる。
 そのとき、北川が頼りにしたのは、「文字を持たない部族」である。「他人」である。--というと、少し間違っていて(かなり間違っていて)、「さら地」にことばが残っていななこと(ことばが無であること)を媒介(?)にして、「無」を生きるものがありうることを北川は思い出すのである。
 そこではたまたま「ギニアの奥地」の「他人」が呼び出されているが、実際に北川がその人たちと「時間」を共有したかどうかはわからない。共有しなくても、たとえば北川にも「文字を持たない時代」があるから(こどものとき、文字をおぼえる前の時間がある)、「文字を持たない」ことがどういうことか、わかる。それを北川の「肉体」はおぼえていて、その「文字を持たない」感覚を「いま」に結びつける。
 その感覚と「さら地」が重なり合う。「文字を持たない」というのは「家」を持たないというのに等しい。人間が「ひとり」としてむき出しになる。「正直」になる。(むき出しの人間と、正直は、「一体」のものである。)「あたま」が「頭蓋(骨)」になってしまっても--なってしまうとき、消えたはずの何かが、ふいにあらわれる。正直が、と私はいいたいのだけれど、そのことを具体的に、論理的に書くことは私にはまだできない。「予兆(予感)」のようにして、そういうことを感じるのであって、ことばを「肉体」の奥から引っ張りだして形にはできない。
 北川も、そういうことを具体的に、論理的には書けないから、詩という、矛盾によって輝くものを利用して、ここにこうやって書いたということだろう。

 論理的に書けないからこそ(頭の理解しやすいようにかけないからこそ、というと何か申し訳ないことをいっているような感じもするが、否定的ではなく、肯定的に「逆説」を書いていると読んでください)、北川は、北川自身の「肉体」がおぼえていることへ引き返す。ギニアの部族の体験と北川自身の文字を持たないときの感覚をかさねあわせながら、さらに「肉体」のおぼえていることを思い出す。

頭蓋の鮮やかな傷も
彼らにとって
河の蛇行ほどのものかもしれない

今日
誰も書かなかった明け方の汽車に乗り
誰も書かなかった土地を旅した

ひらべったい文字を
川に向かって投げると

何かをこらえたように
いくつも水を切って見えなくなり

空を 白い貨物船が
律儀にゆっくりと航行していった

字が書けそうだった

 そうして、正直を発見するから、「書けそう」な気持ちになる。



ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
クリエーター情報なし
思潮社