石倉宙矢『ときはかきはのふたり』は「恋愛詩」なのだが、ときめくような感じではなく、とても落ち着いている。たぶん若い時代の「ときめく詩」というのは、自分が自分ではなくなってしまうという「期待」のようなものが出発点であるのに対し、石倉の書いているものが、自分から出て行かなくてもいい「暮らし」の詩なのである。ふたりの間には何もない(若いときの恋愛)ではなく、もう「暮らし」がある。ふたりの時間がある。それが落ち着きを与えている。
「早春」がとても印象的だ。
風が背戸のあわいを吹きぬける
樋や羽目板をならして
どこかで憎しみや裏切りが
ひらめいてくだけた
つめたいのに、皮膚は温もっている今日
あたたかいくせに、面差しの冷えている明日
あなたがわたしになり
わたしがあなたになれる
そんな風が吹きとおってゆく
今の今
そこのそこ
3連目の「そこのそこ」。わかります? わからないよね。そこがどれか。でも「そこ」でわかるひとがいる。「それ」でわかるひとがいる。「あれ」でわかるひとがいる。よくあるでしょ? 「あれとって」「あれね」。
「暮らし」があると、そのなかで蓄積されるものがある。その「暮らし」の外にいるひとにはわからないけれど、「暮らし」のなかにいるひとには、「そこ(それ)」と言ったひとの場所と、「そこ(それ)」の距離から、「そこ(それ)」がわかる。「そこ(それ)」なら、言ったひとからは離れているが聞いているひとの近くだろう。「あれ(あこ)」なら、言ったひとからも聞いているひとからも離れているだろう。その「距離感」が浮かび上がらせるものが「そこ(それ)」「あこ(あれ)」である。「そこ(それ)「あこ(あれ)」で通じてしまうのは、指し示されたもの(こと、場所、時間)をふたりが知っているからである。共有されたものがあるのだ。
だから、
ねえ、うそはいけないよ
ええ、ほんとはもっといけない
というとき、ひとりが言っている「うそ」、もうひとりが言っている「ほんと」も何のことかふたりにはわかる。
この詩を読むと「そこ」も「うそ(ほんと)」も具体的には何を指し示しているのかわからないけれど、私にはわからないものをふたりがわかっているということがわかる。これは、知らない男女のふたりをみて、あ、夫婦だ、あ、親子だ、不倫関係だとわかるのににている。
けんかや、相手をなだめる感じ、いさめる感じ、軽口のたたき方--要約してしまうと区別がなくなるけれど、要約できない「口調(肉体のリズム)」、ふたりの「肉体」の距離感、眼差しの動き方のようなものが、ふたりの「関係」を「感じさせる」。
それは「意味」ではない。だから「頭」で要約するわけにはいかないのだが、「肉体」が感じる。「肉体」が「おぼえていること」が「意味」を超えた、手触りにふれる。
嘘はいけない。けれど本当のことを明らかにして相手を傷つけてもいけない。嘘と本当は、背戸を吹き抜ける風のように吹き抜けさせなければならない。今、早春の風が吹いて言ったね。いままでよりも温かいね。そうね、けれどちょっと寒い感じも残っているね。相反するものを同時に感じるとき、そこに、何かがある。
あなたがわたしになり
わたしがあなたになれる
というのは嘘でもあるし、本当でもある。相反するのではなく、それはとけあっている。区別がない。そういう「区別のない」ところにまで恋愛がたどりつくと、それは恋愛ではないのかもしれない。ときめかない。けれど、もし「ふたり」が「ひとり」になると、猛烈にさびしくなる。
「そこ」だけではなく、「そこのそこ」という微妙なことは、「暮らし」があってはじめて生まれることばである。「そこ」だけならひとは指し示すことはできるが、「そこのそこ」をひとは指し示すことはできない。指し示しえない「そこのそこ」を「わかる」のは「暮らし(思想/肉体)」だけなのである。
この詩集は、そういう「場」で書かれている。
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石倉 宙矢 | |
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