マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(★★★★★)

マジド・バルゼガル監督

これはまったく新しいイラン映画だ。新しすぎて、最初はついていけない。つまり、予想と違うことが起き過ぎる。しかし、だんだんその奇妙な展開に慣れてくると、もう、どきどきして映像から目が離せない。
中年の、禿の、でぶの男が主人公。団地に父と住んでいる。団地のひとの小間使いみたいな感じで重宝されているのだが(ここまでは、それまでのイラン映画の延長といえなくもない)、父親が再婚し、主人公の息子に「家を出て行け」と言ってからが異様である。
ふてくされているだけだが、だんだん周囲の人に悪意を持つようになる。団地の犬、猫に毒入りのえさをやって殺してしまう。父が、団地をうろつく犬猫を嫌っていたので歓心を引きたかったのだ。だが、逆にしかられる。そこから急速に悪意が膨らむ。
夜警の同僚を密告して職場から追い出す。乳母車の赤ちゃんを誘拐し、泣き出すと窒息死させようとする、路上に放置する、アパートの家主を納戸に押し込める、少年の子犬をゴミとしてだしてしまう、クリーニング店の店長を殴り殺す、そして父の家庭へ押しかける・・・
 この変化を主演男優の視線と演技だけで見せる。日常の細部をねっとりと見つめる。日常に「意味」などないのだが、長回しのカメラで主人公の動きを追いながら、主人公が見ているものをスクリーンに映し出す。そこに意味がないから、だんだん精神が荒廃してくる。肥満体の緩慢な動きと、まるで目にも皮下脂肪がついているようなどろりと動く視線、その視線にとらえられた「もの」。父によってあてがわれたアパートの、すさんだ感じがすごい。生活がない、というと言いすぎだが、たとえば父の家にいたときの食卓との違い。一方にはテーブルクロスがあり、料理があり、取り皿がある。客用の椅子がある。ペットボトルに入った水があり、コップがある。ところが男の部屋には小さなテーブルと椅子だけ。そこで男は虚無と向き合い、一人で食べる。虚無を食べるように。味だけは、塩をたっぷり使い、不健康に。
 どこまで人は「悪く」なれるか、暴力を振るえるか、暴力を振るいながら自分の精神の傷に耐えられるか。暴力の傷に耐えるとは、でも、どういうことだろう。傷を傷と感じずに、暴走することか。
ラストの父親の家での食事のシーンが、ちょっとおもしろい。
それまで主人公はいつもスクリーンの右側に座り、食べているが、最後のシーンでは左側に座り、右の父をみながら食べる。父の位地と息子の位地が逆転している。息子が父の位地を奪ったのだ。しかし、本当の最後では、左側のソファに父親が座り、右の椅子に座った息子との対話が始まる。父の位地を奪ったが、息子は息子として「父殺し」を実行するのだ。
この「父殺し」は実際には映像化されないが、もう映像化されたのと同じ。どきどき、わくわく(わくわくは変かもしれないが、今まで見たこともないものを見るという興奮にわかうわくする)してしまう。
また、この主人公を「具体化」する俳優の「肉体」もすごい。醜い。その、迫真の醜さに、あ、この男なら父親を殺してしまうと信じてしまう。終始スクリーンに溢れる息遣いが、耳にいつまでも残って困ってしまった。

 アジア映画祭では観客の投票をやっている。たぶん今回のベスト1は逃すだろうけれど、10年後には世界の古典としての位置を占めるだろう。そういう強靭な映画である。前年なのは、上映条件(機器との相性?)が良くなかったのか、色彩がかなりあいまいになっている。監督が最後に意図したものと違っていると語っていた。鮮烈な映像でもう一度みたい、もう一度ノックアウトされたい映画である。
(2013年09月16日、キャナルシティ13)