谷川俊太郎『こころ』(51) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(51)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのうの「買い物」が大人向けの詩だとしたら、「こころから」はそれを子ども向けに書き直したものと言えるかもしれない。サブタイトルに「子どもたちに」ということばがそえられている。

こころはいれもの
なんでもいれておける
だしいれはじゆうだけれど
ださずにいるほうがいいものも
だしたほうがいいものも
それはじぶんできめなければ

 自分できめなければいけない、というのはそれはそうだけれど、むずかしいね。こういうむずかしいことも平気で(?)子どもに向けて言ってしまうのが谷川の谷川らしいところなのかなあ。
 そのあと谷川はかなりこわいことを言う。

こころからだしている
みえないぎらぎら
みえないほんわか
みえないねばねば
みえないさらさら
こころからでてしまう
みえないじぶん

 出したものがこころのなかに入れておいたものだとして、その出したものだけが出るわけではない。意識しないものも出てしまう。そして、これは何かを出したときだけとはかぎらない。きのう読んだ詩を子どもが読んでいるとはかぎらないが、もし読んでいるとするなら、きっと気づく。
 「隠している」ということだって出てしまうのである。
 何でも「出し入れ自由」というのは自分勝手な思い込みにすぎないかもしれない。
 出て行ってしまうのは「みえないじぶん」。自分には見えないけれど、それは他人には見えてしまう。他人にも見えないなら「見えない自分」というのは存在しない。

 こんなこわいことを子どもに言ってしまっていいのかな?

 こわいことだから、子どもに言ってしまいたいのかもしれない。言わなければならないのかもしれない。大人になってから、それがわかるためには、何もわからないうちに、その「ことば」を覚えておかないといけない。ひとは聞いて覚えたことしか思い出せない。わかることができないのだから。
 思い出せる?
 「みえないじぶん」が「こころからでてしまう」と気づいたのはいつか。そして、それに気づいたとき、どうしてそう気づいたのか。誰が教えてくれたのか。
 「教訓」ではなく、「肉体」をのぞくとき、どうしてもつかみきれない「子ども」がどこかにいて、笑っているような気持ちになる。「何もかも知ってるよ」と残酷に笑っている。
 --こんなことは、谷川は書いてはいないのだけれどね。書いていないから、読んでしまうのである。




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