谷川俊太郎『こころ』(49) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(49)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「こころ」シリーズは毎月一回(たしか第一月曜日)に朝日新聞の夕刊に連載されたものだけれど、こうやって一冊になって読んでみると、ときどき毎月書いたというより、一回に何作かつづけて書いたのではと思うことがある。
 「ふたつの幸せ」と「一心」は「ふたつ」「一」と違うし、一方が「幸せ」なのに他方は苦悩のようなものを描いているから、まったく違うと言えるのだけれど。でも、その違うこと「ふたつ」と「一」、「幸せ」と「苦悩」の関係が「呼応」のように思える。一方を書いた瞬間、その奥からふっと沸き上がってくる「反論(?)」のようなものに見える。
 その「一心」。

生きのびるために
生きているのではない
死を避けるために
生きているのではない

そよ風の快さに和む心と
竜巻の禍々しさに怯える心は
別々の心ではない
同じひとつの私の心

 正反対とさえいえるものまで「ひとつ」のこころ。こころが、そんなふうにどこまでいっても「ひとつ」なら、「肉体」はどうなんだろう。
 たとえばきのう読んだ詩の「少女」と「老人」。彼らの「幸せなこころ」はひとつ。ひとつになっている。そうであるなら「肉体」は? 別々? 別々だとしたら、いったい「どこで」ひとつになっているのだろう。

 こんなことは、ややこしく考えない方がいいに決まっている。そよ風に和むこころと竜巻に怯えるこころが「ひとつ」になるところで「ひとつ」になっている。矛盾したものが、矛盾しているからこそ、それが「ひとつ」である場所があるのだ。
 で、どこ?

 「ありとある」ところ。「ありとある」時間。「ありとある」という無数が「ひとつ」。
 だから、最後に美しい哲学が。

死すべきからだのうちに
生き生きと生きる心がひそむ
悲喜こもごもの
生々流転の

 谷川にとって「生々流転」するのは「肉体」ではなく「こころ」。「ひとつ」のこころが、いくつもの時代、いくつもの「肉体」を流転する。流転することが「生きる」こと。「生きる」とき、そこが「ひとつ」の場所であり、時であり、肉体。

 あ、「意味」にならない「感想」を書きたいのに、どうしてもこんなことを書いてしまう。困ったなあ。


新装版 谷川俊太郎の問う言葉答える言葉
谷川俊太郎
イースト・プレス