井口幻太郎『奇妙な商売』は四つの作品群にわかれている。詩集のタイトルになっている「奇妙な商売」は日常から少しはみだした感じのことを書いているが、それがいやな感じがないのは日常を見る視線が落ち着いているからだろう。
「訪れ」という作品。
朝の硝子窓いっぱいに
芙蓉の影が映っている
子どもの頃見た影絵のよう
澄んだ光がさわさわとその葉を揺する
薄いレースのカーテンを開けると
机の上の開いた書物の顔を撫で
子どものように戯れる
いま、ここにある美しさを、ことばでていねいにととのえる。そういう「生き方(思想/思想)」がつたわってくる。
ここから、幸せを引き出す。
自家には応接室がない
棟割長屋で狭いからというだけでなく
元より襟をただす正客もない
玄関から来るものはなくても
夜遅く やっと路地にたどり着き
疲れた手で狭い書斎の戸開けると
カーテンの隙間を洩れた月の光が
僕のたった一つの癒しの椅子に
座っていたりする
遥々と来て
「遥々と来た」のは月の光だけではなく、その部屋にたどりついた井口そのものかもしれない。自分が遥々と来たから、相手も遥々と来たと感じるのである。井口自身がどこから遥々と来たかは、月の光のように簡単に「距離」であらわすことはできないのだけれど、簡単に言えないからこそ、月の光に「遥々と」を語らせる。そして、それを受け止めるのだろう。
あえていえば、その「遥々と」は、その連の直前の3行にある。「応接室」がない。「正客」がいない。それでも「書斎」がある。本を読み、ことばを読み、井口自身のことばをととのえるという生き方。これは「他人」には見えない。井口自身にも、そのととのえ方がはっきり見えるわけではない。地球と月までの「距離」がはっきりわらかない。遠いとしかわからないのと同じだ。だけれど、月の光をみればまっすぐかどうかはわかる。そういう感じ。
なかなか見えにくい「まっすぐ」なのだけれど、「名前」には、そのまっすぐがすっきりとあらわれたことばがある。
なかなか息子の名前が出てこなくなった母親のことを書いたあと、兄の飼う犬のことが書いてある。痴呆症になって、名前を呼んでも反応しなくなっている。
雑種だけれど
毎晩必ず玄関に出て
一キロばかり先の交差点を車で左折する
兄の帰宅を知らせたこと
畑に現われた猪と格闘し
傷だらけになりながら
明け方 終に撃退した勇姿
僕はいつまでも
覚えているから
最後の2行が美しい。覚えていて、そしてことばにする。そうすると、そこにいちばん生き生きとした犬があらわれる。
この視点を、井口のまわりにいる人にそそいだのが「奇妙な商売」の詩群である。兄の犬と同じように、と書くと語弊があるかもしれないけれど、ひとはみな、自分の領分を守って生きている。領分はそれぞれに違うから、その違いが「奇妙」に見えるかもしれないが、そこには本人にしかわからない「正直」がある。
その正直に井口は、
僕はいつまでも
覚えているから
と寄り添うのである。
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谷内 修三 | |
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