白井知子「雌型(めがた)」を読みはじめるとき「雌型」がわからなかった。雌のタイプ? 女のタイプ? 読みはじめると白井が(と、私は私小説ふうについつい読む)母親を介護している。母親が昔住んでいた家のことを思い出している。
一匹ずつ連なったブニシジミ蝶が幻夢をよぎり 門から 過ぎた年月の奥行きへと遁れていく
という魅力的な行もあるのだけれど……介護というのは似ていて、個性的なことはあまり起こらない。で、私は、そういうのは詩とは違うなあと思うのだ。たとえ同じことであっても、それまで動かなかったことばが動かないことには詩ではないと思うのだ。などと、生半可なことを考えていると、後半、びっくりする。
介護していたはずの白井がふいに消えて、母と娘の血のつながりが突然噴出してくる。血のつながり--と私は簡単に書いたが、これは間違いであって、私は「逃げている」のである。とりあえず血のつながりと書いて、驚いた自分をととのえている。
つながり、というのは、私には実は見えない。
血が噴出していて、その血が見分けがつかない。どれが母親? どれが白井? 混じりあうのでもない。「ひとつ」なのだ。そういうことを、私は感じ、そういうことをもっと論理的に(?)書いてみたいと思うけれど、
うーん、
ただ詩を、白井のことばを読めばいいか。転写するだけでいいか。
二人の間 とうに約束はできていた
そのときがきたら デスマスクができるまで見とどけること
あなたの顔面に
わたしの表情を石膏液とし
縛られるように 押さえつけ 型をとる
雌型となったわたしの顔が固まってきたら すぐ離れる
あなたの肉体に棲みついてきた膨大な血族の先端である 硬直をはじめたあなたの顔を
いまいちど 思い切り伏せさせる
ながれやまぬ涙がカリ石けんのように塗り込まれていく雌型に--
型を外す段になったら
激痛がはしるだろう
わたしの皮膚に罅が入り 奇妙な割れ方をするかもしれない
きれいに分たれることもあるだろう
いずれにしても わたしの素顔は 娘の罰として
永遠に欠落することになる
「雌型」はデスマスクをつくるための石膏の型。--ようやく、私は中学生のとき、レリーフをつくったときの手順を思い出して、あ、あれが雌型だったかと気づくのだが、そんな思い出をたたき壊して、雌型とデスマスクの「激闘」が始まっている。感情の激闘。母と娘が互いをみつめる決闘。
男の私にはちょっと思いつかない。私はたしかに母から生まれた。もちろん、おぼえていないけれど、そういうことになっている。--と、「頭」で考える。納得している。でも、女は違うのだと知らされる。
あらゆる瞬間に、母と娘は「ひとつ」なのだ。この「ひとつ」が実感できないから、私は「血がつながっている」(血でつながっている)と簡単に書いてしまう。そういうとこは医学的、科学的に「証明」できる、頭で整理して受け入れることができるからだ。
でも、女にとって、それは「血がつながっている」というものではなくて、「肉体」そのものが食い入るように張りついている、ということなのだ。分離できない。引き剥がせば、もうそれは「顔」ではなく、血が滲む皮下脂肪であり、なまなましい筋肉であり、骨であり、引き剥がした部分にたとえば指が触れれば、指は突然あらわれた「肉体」の粘着力にからみとられて、世界が反転するような感じになる。むき出しに触れたのではなく、むき出しが指をつつむように飲み込んで「肉体」全体になる。
母が死んだら、娘は欠落する--というのは抽象的な「関係」を言っているのではない。母がいるから娘という呼称が成り立つというような「文法」の定義を言っているのではない。呼称の問題なら、別の呼称を考えればいいだけである。
そうではなくて、母が死んだら、白井のなかに母が新しく生まれるのである。白井は母から生まれたが、母が死んだら白井が母を妊娠するのである。それはおそろしいことに、けっして出産できない胎児なのだ。その胎児は白井の内部から、白井を食い破るようにして表情にまで育ってきて、その表情の皮膚さえも破り捨てて顔をあらわすのだ。
それがわかっていても、白井は、「雌型」になる。
「雌型」になりながら、「雌型」とはどういうことかを実感する。母はまた白井の「雌型」だったのだから。母という「雌型」を引き剥がして白井は誕生したのだから。母もきっと娘が「独立」して育ちはじめたとは実感していないのである。娘が成長するたびに「雌型」である自分(母)の肉体を内側からたたき割っているということを肉体で感じている。娘は娘ではなく、母そのもの、母が「おぼえている」女そのものなのである。凶暴なのである。凶暴な破壊だけが愛なのである。
ここには、私のことばでは手に負えない「必然」がある。こんな「必然」があることを、私の「肉体」は「おぼえていない」。
「おぼえていない」のに、どきどきするような感じで、それに突き動かされる。「知らない」と言い切ることができない。読んだ瞬間に、読んだことが「肉体」のなかに入り込み、「おぼえる」にかわるのだ。読んだときから「おぼえている」がことばと同時進行で動く。--圧倒される、とはこういう感覚である。で、その絶対的な恐怖のようなものを忘れるために「凶暴な破壊だけが愛なのである」というようなデタラメをことばにしてごまかしてしまうのである。ことばに逃げてしまうのである。
この詩は、私にとっては「大事件」である。
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