山本泰生『祝福』のなかに連れ合いのことを書いた詩がある。重病のようである。そのことによって、ふたりとも生き方が変わってきている。どう変わってきたか、もとのことは書いてはないのだが、変わったのだなあとわかる。そこに詩がある。
「ゼラニウム」の2、3連。
思い治療ののち退院してきた相棒が
やっと世話をする玄関の六鉢のゼラニウム
花は少し色鮮やかになったよう
ちらっと蕾も増えている
私は手伝うともなく
枯れた花を摘む蒼白い指や
首筋のかすかな震えをみる
相棒はゼラニウムにふと
何か話しかけている
すると花びらが仄かに光り
何か答えているらしい
山本が連れ合いの「肉体」となって、ゼラニウムを見ている。山本の目が、連れ合いの「肉眼」になって、連れ合いの見ているものを自分の肉体のなかに引き込む。ゼラニウムの花は、連れ合いの肉体のなかで仄かに光り、同時に山本の肉体のなかで仄かに光る。ゼラニウムをとおして、ふたつの肉体が一つになる。
この「一体になる肉体」が、いつもは聞き漏らしていた「声」を聞き取る。「つばめ」は体調の変化で音に敏感になった連れ合いのことを書いているが、音に敏感になったと感じるのは、どうじに山本自身もかすかな音を聞き取れるようになったから感じることである。連れ合いだけが音に敏感になり、山本にその音が聞こえないのだとしたら、そのときつれあいの様子は異様に見えるだろう。連れ合いが耳で聞いている音が山本にも聞こえる。そしてそれは、逆の言い方をすると、山本の聞いているものを連れ合いが聞いているということでもある。
で、子育て中のつばめを見る。
四羽の雛がくちばしを大きく開けて餌を待っている
賑やかな鳴き声をはりあげ
親つばめは虫を捕らえ雛に運ぶ
また休まず飛び立っていく
飛びながら餌の虫を捕ってはすぐさま戻る
(若い時でもこれは大変だ、とても真似できないな。)
私が悲鳴をあげる前に
相棒はふっと独りごと
(子育てぐらい楽しい歓びはないと思う。いきようね
と言われているみたいで。どんなに大変でも。)
連れ合いには山本が肉体の奥でふとつぶやいた「声」が聞こえたのだ。だから、その「声」にこたえるように「子育てぐらい……」ということばが漏れたのだ。しかし、それはほんとうに漏れたのかどうか。私には疑問だ。たぶん、連れ合いも何も言わなかった。言わなかったけれど、その「声」が聞こえた。二人は「ひとつ」の肉体になっているから、「声」にしなくても、その舌やのどが動き、肉体のなかで「声」をつくる。「声」を出す必要がないのだ。
だからこそ、次の最終連。
わたしは声に出さずに伝える
(つばめよ、相棒の願うとおり、しっかり子育てして
力強く巣立ってほしい。それまで存分に騒ぐといい。)
「声に出さずに」だれに伝えるか。「つばめよ。」と呼び掛けられているから、文法上はつばめに伝えていることになるけれど、そんな気持ちにならないでしょ? 連れ合いに伝えているように聞こえるでしょ?
そうだね、子育ては夢中になったね。忙しかったけれど、楽しかったね。うれしかったね。おぼえているよ。
ふたりの「肉体」のなかで、その「おぼえていること」が生き生きと動いているが感じられる。どんなに大変でも「生きようね」と、そのおぼえていることが励ましてくれる。その「声」をふたりで共有している。
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