谷川俊太郎『こころ』(34) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(34)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「丘の音楽」には、わからないところがある。

私を見つめながら
あなたは私を見ていない
見ているのは丘
登ればあの世が見える
なだらかな丘の幻
そこでは私はただの点景

 「登ればあの世が見える」の「あの世」というのは、「死後の世界」ということだろうか。でも、その丘は「丘の幻」、幻であって、実在しない。なぜ「あの世」ということばがここにあるのか、わからない。
 しかし、そういうものを見つめる「あなた」にとっては、「私はただの点景」であるのは、わかる。「私」の見ることのできないものに夢中になっている「あなた」には「私」は見えないだろうと思う。

音楽が止んで
あなたは私に帰ってくる
終わりのない物語の
見知らぬ登場人物のように
私のこころが迷子になる
あなたの愛を探しあぐねて

 「丘」は音楽が聞こえているときだけ存在したのか。音楽のなかにある丘なのか。そうだとすれば、「あの世」もまた音楽といっしょに、音楽が存在するときだけ存在しているのだろうか。
 「あの世」は「永遠」ではないね。
 音楽が鳴っているときは「あの世」を見ていて、音楽が鳴り止むと「この世」に帰ってくる「あなた」。その「あなた」に戸惑っている。

 これは、ほんとうに「愛」のことを書いているのかな? ひとへの愛のことをかいてるのかな? 「あなた」への愛を探しあぐねている「私」のことを書いているのかな?
 それとも谷川の音楽への愛について書いているのだろうか。
 音楽を聞くとき、谷川は「あの世」を見ているのだろうか。
 そして、そのときの音楽とは、具体的にはどんな音楽なのだろうか。どの音楽でも「あの世」が見えるのかな?
 わからないけれど、音楽を聴くとき「あの世」に谷川がいるのなら、うーん、谷川を愛するひとは、かなり戸惑うね。「迷子」にならざるを得ない。
 「あの世」が「現実」ではなく、「没我の世界」の比喩だとしても。
夜のミッキー・マウス
谷川俊太郎
新潮社