大倉元『祖谷』 | 詩はどこにあるか

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大倉元『祖谷』(澪標、2013年05月25日発行)

 大倉元『祖谷』は故郷の日々のことが書かれている。先日読んだ谷元益男『骨の気配』との違いは、暮らしを美化していないことである。谷元益男『骨の気配』の方がことばの洗練(熟練?)という意味では熟達しているのだが、それはあくまで「流通詩(流通近代詩?)」の「文法」内のことであって、それが「流通詩」におさまっているところが気持ちが悪い。大倉は「流通詩」の内部に入らずに書いている。「流通詩」の外部にいて、詩を書いている。
 「飴買い子育て幽霊」というのは戦後の旅回りの芝居を見たときのことを書いている。大倉は母親といっしょにそれを見た。タイトルは芝居の演目で、その内容というのは、

夜毎女が飴を買いに来る
女が帰った後で金は木の葉に変わっていた
女は墓の前で幽霊になり
乱れた髪を振りながらゆっくり辺りを見わたし
スーと消えて行く
墓からは赤子の泣き声が聞こえてくる
女は死んでから赤児を生んだのだ
幽霊となりながらも
生まれたばかりの児を育てているのだ

 で、この芝居は、京名物「幽霊 子育て飴」の由来そのままであることを知る。

土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返
し見ればなくなりし妻の産みたる児にて
ありき、然るに其の当時夜な夜な飴を買
いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる
後は、来らざるなりと。

 ここに書かれていることは「理不尽」である。非現実的(非科学的)である。死んだ妻が妊娠している、というところまでは現実にありうる。死んだ後に赤ん坊が生まれる、ということもないではないが、墓に埋められてから赤ん坊を産むということはありえないし、その赤ん坊が飴で育つということもありえない。その赤ん坊を夫が土中から掘り返して育てるということもありえない。
 でも、そういうありえないことの中に「真実」がないかといえば、そうではない。かぎりない真実がある。妊娠したまま死んでいく母親の無念、哀れという真実があり、引き継がれる命を育てたいという切実な真実がある。ひとは、それを感じ取り、それが嘘だとわかっていても、それを引き継ぐ。その真実の中に、自分のかなえられない何かがあるからだ。
 大倉は母といっしょにその芝居を見ながら何を感じたか。きちんとことばにしようとするときちんと言えないかもしれないが、そばにいる母親も、きっと幽霊の母親と同じ気持ち(母親には幽霊の気持ちがわかっている)だろうと感じた。それはまた、大倉が土中で泣いている赤子を自分であると感じたということでもある。「常識」を越えるものが母と子、肉親のあいだに存在する。それは「非常識」であるからこそ、真実なのである。そこには「祈り」という本能がある。

飴を口に入れる
甘い香りのなかに
六十年前の
母やんとぼくが居る
母やんの手が温かい

 「温かい手」のその温かさは「肉体」で感じることしかできない。「頭」ではつかみとれない真実である。
 私は「頭」で整えられた詩、詩を偽装した修辞学よりも、「肉体」が信じ込んでいる「嘘」のなかにある「祈り(欲望/本能)」を信じる。

 苦しい暮らし(貧しい暮らし)のなかで、大倉は「泥棒」を3回はたらいたと書いている。そして、泥棒被害にあったことも書いている。高校に入学し、教科書を買う。その教科書を盗られてしまう。下宿先の親類のおばさんに金を借りて教科書を買い直し、大倉は授業を受けるのだが……。

ぼくは思った
ぼくより貧乏な生徒がいるものだと
僅かばかりの山林はほとんどなくなっていた

都会での高校生活は
村では一番の賢い坊主とおだてられてたが
正直 勉強にはついていけず成績も良くなく
大運にも恵まれなかった

どんなことがあってもあの時の悲しみを
他人様に与えてはならないと
心に命じて生きてきた
どうにかこうにか古希を超えた

あの教科書で授業を受けた者も
どうか幸せであってほしい

 ここに書かれている「他人様」「幸せ」ということばは美しい。ほかに言い換えがきかない。そこに詩がある。


祖谷―詩集
大倉元
澪標