aという部分にまとめられた作品は長い。「マングローブの林」には島尾敏雄がでてくる。レモンド・カーヴァーもでてくる。それはマングローブ、汽水域というつながりで結びつくのだが、その必然性というものが水島にはあるのだろうけれど、私にはわからなかった。
次の「二〇一二・夏・加計呂麻」という作品も長くて、ああ、長いなあといことしか思わなかった。なぜ、こんなに長い詩を書くのだろう。
あ、こういうことか、とわかった気持ちになったのは「かつて そのとき 何かが」にたどり着いた時である。新井豊美の思い出を書いている。
「みちすじ」ということばに立ち止まる。
深い井戸を覗く女のそれ、
水俣の悲惨とシチリアの光が出会う河口を目指して
歩き続けた女のそれ、
果てしない海から生まれる一条の水脈
青空を切り裂く飛行機雲
みちすじはまた二つのもの、ときには正反対に見えるもの
エミリーの「嵐の夜」と「エデンの園」を
死と生を結びつける、はじまりと終わりを
罪と官能をその金色のほそい髪で結ぶ。
水島は「ことば」に出会い、立ち止まり、そのことばが「いま、ここ」にあらわれるまでの「道筋」をたぐっていたのか。島尾敏雄の作品を読み、そこにかかれていることばがどんな道筋(過去、来歴)をもっているか理解しようとしていたのか。島尾研究をしていたのか。
あ、これでは、私にはわからないはずだ。長々しく感じるはずだ。私はことばがこれからどう動くかには関心があるが、あることばがどこからやってきたかを考える習慣がない。それで、水島の書いていることばがさっぱりわからなかったのだ。まるで知らない外国語のように感じられたのだ。
そうか、道筋なのか・・・
でも、道筋は手ごわいなあ。
みちすじはまた二つのもの、ときには正反対に見えるもの
道筋は、あるいは道は、あるもの(場)と別なもの(場)を結ぶ。結びついた瞬間(道になった瞬間)、それは逆方向の運動を必然的に生み出してしまう。歩いた人は「片道」、行ったきりしか考えなかったとしても、それは逆の運動を引き起こす。
水俣ということばを手掛かりにすれば、チッソの水銀を垂れ流すという方法は水俣病患者を生み出し、それは患者から見れば原因はチッソにあるということになる。同じ道でも「正反対で異質」なものになる。
その筋(ストーリー)は、そしてたくさんの脇道(そばの道、並行する道)をも作り出す。患者の側から歩きはじめる新井の道。そうした並行の道はやがて垣根を取り払う形で拡幅され、広い道になる。
どちらが原因で、どちらが結果かということは、しだいに変化する。「事実」にかわりはないのだが、主語、動詞の動き方が違ってくる。水銀が水俣病を生み出したと、水俣病の原因は水銀であるというのでは、「道筋」がほんとうは違うのである。同じように水俣の魚を食べても水俣病になる人とならない人がいるから、水俣病の原因を水銀(チッソの垂れ流し)とだけは言えないとごまかすか、魚を食べて水俣病になったのだから責任は水銀を垂れ流しつづけたチッソにあると追及しつづけるか。
道筋さがしは、実は運動の方向、ベクトルさがし(ゲシュタルトの方法さがし)でもあるのだ。
水島の詩には、この詩でもそうだが、登場人物はひとりではない。新井豊美ひとりに水島が向き合うわけではない。わきからエミリー・ディキンソンがよりそう。それは荒いと同じ道をたどるわけではない。エミリーは水俣病について発言するわけではない。しかし、新井を支える。
と言っても。
それはほんとうに新井を支えたのかどうか、実は、わからない。
エミリーが支えているのは、新井そのもではなくて、水島の新井理解(水島の思描く新井像)である。水島はエミリーを同伴者にして新井を理解している。
水島はそやって新井とエミリーを出会わせる。ふたりの出会いの場として水島が存在するのである。
詩は、その二人が出会う瞬間に、水島という「肉体」で生まれる。
同伴者を連れて歩くことで、出会うはずのなかった出会いを演出する――というのは、それはそれで新しいことだと思うけれど、自分はどうなってもいいという感じで、自分一人で対象にぶつかったときのことばが読みたい、とも思った。
同伴者と一緒だと、関係が客観化(?)されすぎて、散文(評論、小説)のように読めてしまう。きのう藤野可織「爪と目」という「あなた/わたし」の区別があいまいな気持ちの悪い小説を読んだ後なので、とくにそう感じるのかもしれないが。
(筋、ストーリーと詩、ストーリーから逸脱してゆくものについても書きたかったが、左手だけで40分では書ききれない。右手から、こぼれてしまった。筋は統合されてゆたかなストーリー、散文、小説になるが、詩はストーリーを破壊して輝くという視点に立てば、水島は詩よりも、小説を書いた方が自在にことばが動くのかも。)
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水島 英己 | |
思潮社 |