
これは簡単に言うと、でたらめ、ご都合主義の映画です。舞台はベルリン。北朝鮮のスパイ、韓国のスパイ、ロシアのスパイ、中東のスパイ、アメリカのスパイ(と、スパイと言い切ってしまうと違うのだけれど、区別する必要はない)、それから韓国大使、金日成の遺産(?)がからみあって、次から次へと話が変わっていく。二重スパイがいるのか。だれがこのストーリーを操っているのか。
いやあ、傑作です。
ただ、次から次へと話をひっぱって行く。ストーリーそのものはどうでもよくて、次から次へとアクションが繰り返される。銃撃戦だけではなく、素手(?)での殴り合い。途中には、女が屋根から(ビルから)落ちそうになるという静のアクション(はらはら、ですね)もあってねえ。
さらに、ブラジャーに関心を持つふりをして盗聴器を仕掛けたり、盗聴されているとわかり筆談したり--でも紙があるのに、わざわざ曇ったガラスに指で文字を書いたり。あるいは「危機のときはアリランを半音下げて歌い、さびは口笛で」なんていう暗号まで飛び出して……。
なんのことか、わからないでしょ?
わからなくていいのです。ストーリーなんかわからなくても、そこに「肉体」があり、アクションがある。そのアクションというのは、役者同士の「肉体」のぶつかりあいだけではなく、ある人間の動きを追う「目」というもある。この「目」を「尾行の目」と言いなおすと、それがスパイの必須アイテムであることがわかるけれど、そういう地味なアクションもていねいにまぜながら、ともかく緩急をつける。観客の気をとぎらせない。しっかり見ていないと何が起きているのかわからない。
あ、繰り返しになるけれど、しっかり見ていても何が起きているのか、「真実」は何なのか、さっぱりわからない。北朝鮮の昇進(?)のシステムなんかの話しもからんでくるから。
わからない、わからない、と言いながら、主人公(北朝鮮のスパイ)が窮地に陥っているということと、そのスパイに韓国のスパイが最終的には共感をよせる(男の友情)ということは、わかる。ひとがひとに寄せる共感(男の友情)なんて、まあ、そのひとだけにわかるものだから、途中はどうだっていいのである。どんな具合にでも説明ができるものである。だから、テキトウ。これがうまくいかなければ、これでどうだ。こんなふうに話を展開するともうひとつアクションをつけくわえられる。
私の感想も、いったりきたりだけれど、この映画もいったりきたり。テキトウに説明をしなおしながら進む。そのテキトウのリズムがとてもよくて、これ、いいじゃないか、という気持ち。
映画なんだもの。嘘なんだもの。
一種のクライマックスとも言える、瀕死の女をかかえて主人公が荒地を歩き回るなんていう古い古い日活映画(見たことがないのだけれど、小林明が浅丘ルリ子あたりをかかえて演じそう)のようなシーンもあってねえ。それがとっても長くて退屈なんだけれど、あ、こんなシーンもアクションものの必須アイテムだねえ、と楽しむことができる。これが短いと「文学(芸術?)」になってしまうからね。
この映画は、いわば、「芸術にはならないぞ」という精神で、映像(アクション)を磨けるだけ磨いたという「娯楽」に徹した映画。
見てください。
(2013年07月20日、中州大洋2)