ヒュー・ハドソン監督「炎のランナー」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 ヒュー・ハドソン 出演 ベン・クロス、イアン・チャールソン

 「午前十時の映画祭」デジタル版の1本。
 イギリス映画の黒はきれいだなあ。最初に見たときも感じたがデジタル版も美しい。フィルム版シリーズの「ゴッドファザー」を見たときは、黒のあまりの変質にぎょっとしたが、デジタル版では黒を取り戻しているかなあ--という期待をしてしまった。
 と、最初から脱線したが。
 パリオリンピックに出場したイギリス選手の実話。この映画の魅力は、なんといってもイギリス人の「個人主義」をきちんと描いているところ。イギリスの「個人主義」は、さすがにシェークスピアの国だけあって、やっぱり「ことば」にこだわる。ことばで言わないかぎり「個人主義」は成立しない。
 敬虔なクリスチャンであり、宣教にも情熱をそそぐイアン・チャールソンは百メートルの選手なのだが、予選が日曜日にあるために棄権する。その話を聞いて、大学が説得する。
 「国家、国王、大学などの名誉を無視するのは、傲慢じゃないだろうか」
 「宗教の問題にまで口を挟む方が傲慢だ」
 すごいですねえ。日本だったら(日本だけじゃないかもしれないけれど)、権力が個人に対して「傲慢」という批判をしてきた場合、ちょとたじろぐ。でも、イアン・チャールソンは違うんでねすねえ。ことばで反論し、ことばで自分の立場を守る。ことばとして成立するものは、もう、絶対的な存在。完結した存在。それ自身として存在する。そういう感じの「個人主義」。ことばの完結が個人の完結、という感じの「個人主義」。
 完結したことば(完結した論理)は、もう、不可侵。変更のしようがない。絶対的な存在なのである。
 この例はいちばん厳格な例かもしれないが、随所に、そういうことを感じる。冒頭の寮の受け付け(?)でベン・クロスが「坊や」呼ばわりされる。それに対して、彼は「坊やは戦争で捨ててきた」というような反論をする。「坊や」と呼ぶな、という。これもね、ただ「坊やと呼ぶな」ではきっとだめなんだろうなあ。自分はこういうふうに生きているということを「ことば」で語る。「ことば」にしたことがらが、そのひとの「プライバシー(完結した内部)」。完結した内部には、だれも侵入できない。そういう感じだなあ。
 こういう「完結したことば」を英語では、たぶん、ボイス(声)という。その人独自の声。声をもっている、というのは文体をもっているということ。個性、プライバシー、個人主義というものが、その周辺で形成されている感じ。
 そして、これが人間だけではなく、なんといえばいいのだろう、「調度」にも言えるような気がする。「調度」というのは私の「方便」であって、ほんとうはそんなくくりかたをしないのだろうけれど、たとえば大学の内部の食堂のあり方(食事の取り方、晩餐のあり方、そこには「正装」というものも含まれるのだけれど)、あるいは室内にそなえつけられてある書籍--それらは全部、一個一個、「内部不可侵」という感じで存在している。「内部不可侵」を主張し、尊重し、さまざまなものが集まっている。だから、映像の情報量が多くても、それがうるさくならない。とても落ち着いている。「内部不可侵」を秘めて、一部しか見せていないから(自己主張しないから)なんだね。それがイギリスなんだなあ、と思う。
 古い映画なので、ちょっと「脇道」ふうの感想を書いてみた。
                        (2013年06月29日、天神東宝5)






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