出演 マーク・ウォールバーグ、ケイト・ベッキンセール、ベン・フォスター
バルタザール・コルマウクル監督「ハード・ラッシュ」はカメラが演技するわけでもなく、かといって役者だけに演技させるわけでもない映画である。こういう映画では何が主役かというと「脚本」である。ストーリーである。ストーリーがくっきりと見えるように、カメラも役者もわきまえている。だから、複雑な展開というか逆転、逆転、大逆転という具合に話が変わっていくのだが、実にスムーズである。脚本が非情によくできている。
マーク・ウォールバーグはもともと不透明な役者である。レオナニド・ディカプリオやクラーク・ゲイブルのように「華」のある役者ではない。その「華」のなさ(?)を利用して、ストーリーを肉体に集中させる。(肉体の「華」がストーリーを突き破り、そのことによってストーリーがさらに展開する、というような役には向いていない。言い換えると、ギャツビーやレット・バトラーは演じられない。)何があってもパニックに陥らず、ぐいぐいとストーリーの展開だけを押し進める。まるで結末がわかっているみたい--というと変な言い方になるかもしれないが(役者は脚本を最後まで読んでいるからね)、結末は自分の力で切り開けるという不思議な安心感をあたえる肉体である。
脚本は、とてもよくできている--と書いたのだが、よくできすぎているというか、それはないだろう(これって、ストーリーのためのストーリーじゃないか)といいたくなるのが絵画を強奪するシーン。たまたまその日、そのとき、絵の移送があるというのは映画なのだから許せる(ご都合主義は大好き!)なのだが、
おいおい、車で強奪に来てるんだろう、わざわざ絵を額縁から外すなよ。梱包されたまま持って逃げて、安全な場所へ行ってから取り出せよ。
ね、見ている先から、この絵が最後になって大金に変わるのだとわかってしまう。現代美術なんて、よごれた布と同じだから知らない人はみんな見すごす……ということを、「運び屋」がストーリーとして頭の中でつくり、それにあわせる形で他の人間を動かせるかねえ。
私は、こういう「自分には知識があるが、他人には知識がないから、その裏をかいてこういうことができる」という展開は好きになれない。
窃盗ものでは、最近では「天使の分け前」(ケン・ローチ監督)という傑作がある。そこに出てくる主人公は、まあ、「教養」とは無縁のチンピラである。でも、なぜか嗅覚が発達していて(肉体の特権)、ウィスキーのテイスティングが得意であると気がつく。そこから、その能力を利用して泥棒を思いつくのだが、そこには「知」のひけらかしがないね。「知」に頼らずに、いろいろ工夫する。自分のできることを組み合わせる。それがおもしろい。
「ハード・ラッシュ」のように、船の設計図も読むことができる。合鍵をつくることもできる。贋札の判別方法も知っている。現代美術の教養もある、というのでは、ちょっとねえ。そういう「能力」があるなら「運び屋」じゃなくて、もっとほかの仕事があるだろうに、と言いたくなってしまう。
でも、まあ、マーク・ウォールバーグのストーリーを展開する肉体派の演技(マッチョだけが肉体派ではない)を味わうにはいい映画だなあ。--この視点から感想を書くべきだったかな? 脚本の「欠点」をつついて、横道にそれてしまった。それ以外は欠点のない映画ということかもしれない。
(2013年06月23日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン6)
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