野木京子『明るい日』(2) | 詩はどこにあるか

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野木京子『明るい日』(2)(思潮社、2013年06月20日発行)

 先日、ある詩人から「最近の感想は肉体のことばかり書いていて、ワンパターンだという声を聞く」と伝聞の批評を聞かされた。その人が思っていることを伝聞の形にしたのか、それともほんとうに伝聞なのかわからないが。
 でも、伝聞であったとしても、それを伝えるということはその意見をどこかでそのとおりと思っているからなのだろう。--こういうことを、私は「分有/共有」ということばであらわし、同時に「精神」ではなく「肉体」の問題として書いているのだが。私にとっては、「肉体」というものは世界に「ひとつ」しかなく、「精神」がその「ひとつ」を便宜上、いくつもの存在に識別し、合理的に(?)動いているように感じられるからである。
 で、そういうふうに考えは--たとえば「細枝の生きもの」にも私は見いだすのである。そして、そういう作品を好きになるのである。

水のなかのあぶく、ぷくぷく
ひと粒、…粒、ひと…
声と音がちいさく身をちぢめて詰まっている
--そのような粒を拾いあげるためにひとは心を持っているのだろう
と 細枝のからだの生きものが言った
やわらかな水には声と音が溶け込んでいるから
私はやわらかな水を探しに行かなければならない
と ひとが言った
そのひとはいなくなったあと
自分の声と音をそのようなひと粒のなかに入れてしまったのだろう
だから
粒を探しているひとが粒のなかにいて
その粒を探しているべつのひともまたべつの粒のなかにいて
その連関が世界のひみつの鍵だったのではないかと
やわらかな水のなかの細枝の生きものが言う

 タイトルの「細枝の生きもの」が何をあらわすのかわからない。しかし、それは5行目で「細いからだの生きもの」と「からだ」を補って言いなおされている。その瞬間、それは「ひと」につながるものに見えている。それも太く頑丈な幹ではなく、細い枝のようなもの。それは「弱い」ということかもしれない。傷つきやすいということかもしれない。その「弱い」何かが、「ひと」に思いを寄せて、ひとは「声と音が詰まっている粒」を拾いあげるために「心」を持っているという。
 それを引き継いで、ひとが「やわらかな」水には声と音が溶け込んでいるから、やわらかな水を探しに行くのだと言う。
 さらにそれが発展し(展開し?)、そのひとはいなくなっても、その声と音は水の一滴のなにかはいっている。
 入れてしまう。溶け込んでいる。詰まっている。
 ことばは少しずつ違うのだけれど、水の「ひと粒」のなかに、声と音についての「考え」と「細枝のからだの生きもの」「ひと」が、それこそとけあうような形でいっしょになっている。「細いからだ」「やわらか」というものを「分有/共有」している。「……といった」という伝聞を繰り返す形で引き継いでいる。その引き継ぎの過程で共通するものが「分有/共有」される。

 ここで私がとてもおもしろいと思うのは、「細枝のいきもの」に「からだ」があり、「ひと」には「心」があるということ。さらに、そのことが、ひとが「いなくなったあと」ということばが交錯することである。「いなくなる」とは「からだ」がなくなるということだろう。でも「心」はあって(思いはあって)、それはたぶん「自分の声」と呼ばれるものであって、それは「ひと粒」のなかに「入れてしまう/入ってしまう/溶け込んでしまう/詰まっている」。
 そのとき「ひと粒」とは「からだ(私の言い方では、肉体)」なのである。「からだ」は「水」の形に変形し(?)、その「からだ」が「やわらか」に象徴されるような「心」を引き継いでいる、と考えると、--二元論を利用して言いなおすと、「ひとつのこころ」が、形をかえた「からだ」に引き継がれ、存在しつづける。「心」こそが「二元論」の神髄であり、「もの」は「心」を受け入れながら変化しつづける、ということになるかもしれない。「心(精神)」は「ひとつ」。「もの」は複数。「神」は「ひとつ」。「もの」は複数……。
 あ、わかりやすいね。
 でもねえ。
 私は、その「わかりやすさ」に何かうさんくさいものを感じているのである。
 私はそれよりも、「そのひとはいなくなったあと/自分の声と音をそのようなひと粒のなかに入れてしまったのだろう」の「入れてしまう」という動詞に、何かひかれる。「肉体」が動いて、「声と音」を水のなかに「入れてしまう」。「声」はのどから出てくる。それは「肉体の一部」。それを水に引き継がせている。水のなかには「声/のど/肉体」が引き継がれている。それも「精神」の運動として引き継がれているというよりも、「入れてしまう」という一種の強引な肉体の(からだ)の運動そのものが、そこに介在している。この「からだ」をともなった動きなら、私はうさんくさくは感じないのである。
 「入れてしまう」からセックスを想像し、生殖に結びつけると、それはあまりにもマッチョな思想ということになるかもしれないけれど、私はここに書かれていることのなかには、「肉体」の基本的な運動(本能)があると思う。本能が「分有/共有」されていると感じるのである。
 肉体が交わり、そこから新しい「いのち」が生まれてくる。それは「ひと」を例にとるなら、まったく新しい個別の「いのち」の誕生ということになるかもしれないが、そこには「肉体」が引き継がれている。もちろん、この「肉体」を抽象化・概念化し、精神とか遺伝子といってもいいのかもしれないけれど。
 そういう抽象化・概念化したものは--私の感覚の意見では、「分有/共有」されない。抽象化・概念化したものは、何か強引に「逸脱」するものを排除しながら合理的な運動を押しつけてくる感じがして、違うと思ってしまうのである。
 「分有/共有」というのは、野木が書いていることばを借りて言えば「ひみつ」として「からだ」が隠し持っている力なのである。遺伝子をいくら追い詰めても何かわからないものが常に残る--その不明なもの「ひみつ」こそが「分有/共有」されるものだと私は思っている。
 ひとが道端に倒れて呻いている。それを見て、あ、このひとは腹が痛いのだと感じる。自分の痛みでもないのに、感じてしまう。痛みを「肉体」で「分有/共有」してしまう。なぜ、そんなことができるのか。それは「ひみつ」である。「ひみつ」はいう必要がない。ただ、「ひみつ」があるということを納得すればいい。私たちが「分有/共有」しなければならないのは、その「ひみつ」である。
 私はこの「ひみつ」があるということ、それをひとが納得する(納得している)ということを、ちょっと別のことばで言いなおしたいと思っている「ひみつ」の鍵が「肉体」にあると思っている。。その「言い直し」を手助けしてくれる詩(ことば、文学)をいつも探している。

 --こんな文章で、はたして「細枝のいきもの」の感想になったのかどうかわからないが、私がこの詩はいいなあと思うのは、そういうことを勝手に考えることができるからである。勝手に考えながら、「からだ」「やわらかな」「ひみつ」というものの「連関」を「分有/共有」できたと「誤読」するのである。ここに「生きる」ための手がかりがあると感じる。
 「ひみつ」を追っていくことばの運動のなかに、大切なものを感じる。何かきっかけがあれば、その「ひみつ」は結晶し、そのなかを通る光は一瞬のうちに宇宙全体をてらすだろうなあ、という予感が、この詩集のなかにある。




詩集 明るい日
野木 京子
思潮社