バズ・ラーマン監督「華麗なるギャツビー」(★★) | 詩はどこにあるか

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監督 バズ・ラーマン 出演 レオナルド・ディカプリオ、トビー・マグワイア、キャリー・マリガン

 3D版と2D版があり、私が見たのは2D版。3D映像を意識したシーン(カメラワーク)がとてもうるさい。パーティーのシーンや車を飛ばすシーンが、ただ3Dであることを強調するためだけのために撮られている。3Dで見ても、特に驚くような感じではないだろう。しかし、そんなふうに撮らないと3Dの意味がなくなるので、わざとあざとくとったのだろう。
 そのあおりで、とてもひどいシーンがある。映画の中で重要なシーンなのだが、それが無意味に薄っぺらくなっている。質感のないつまらない映像、人間の役者で言うなら「存在感」のない映像、情報量の少ない「看板」のような映像になっている。皮肉にも、それは看板そのものの映像なのだが……。
 マンハッタンと郊外を結ぶところにある石炭ガラを処理する労働者の町の眼科医の看板。眼科医は廃業して、看板だけが残っているのだが、その看板がそこで起きることを見ている(目撃者になっている)というとても重要な「もの」なのだが……。3D版では何か工夫がしてあるのかもしれないが、2Dで見るかぎり、芝居の書き割りのように安っぽい。「目撃者」を象徴する看板なのだから、それなりにきちんとした映像にしないと、その象徴が映画を語りすぎてしまって、味気ない。映画の中で起きたことがどんなに空想的であっても、それを目撃したということだけは事実である、という「意味」が、とっても薄っぺらに浮き出てしまう。「ストーリー」の要約になってしまう。「目撃」という「要約」そのものになってしまう。
 映画に限らず、何でもそうであるが、「目撃したということ」なんかはどうでもいい。「目撃されたこと」そのものがあればいい。「目撃者」なんか、いらない。観客が「目撃者」そのものであり、カメラが「目撃者」なのだ。(小説ならば、「文体」が「目撃者」なのである。)
 「目撃者」を強調すると……。
 ギャツビーの「アメリカンドリーム」(極貧の家から独立して、大金持ちになり、美しい女と結婚する)という「夢」そのもの(夢の内容)は、まあ、とっても薄っぺらになってしまい、「夢見ること」が強調されてしまう。目撃したのは、夢を追いかけたひとりの男がいたということであって、その男の夢そのものがないがしろにされる。言い換えると、こそにはストーリーだけはくっきりと浮かび上がるが、そのストーリーを突き破ってしまう夢の具体的な(物質的な)豪華な愉悦がおろそかになってしまう。
 それだけではなく、「夢見る男」(敗北した男、失敗した男)は、実は、こんな純粋な面をもっていたということを「目撃者」が語らないとおさまりがつかないという、なんとも薄っぺらいというか、「道徳の教科書的」というか、--成功しないアメリカンドリームの言い訳みたいなことを付け足さないことには「おわり」にならないという奇妙なところにたどりついてしまう。(原作そのものが、そういうふうになっているのだろうけれど。)
 映画は、まあ、夢の具体化をできるかぎり表現しようとはしたのだろうけれど、なんとも「情報量」が少ない。ひとを驚かすパーティーのシーンも、数は多いのだけれど「質」がともなっていないので少なく見える。「質」の欠如によって「成り金」を強調しているのかもしれないけれど、うーん、そうではなく「質」そのものを、この映画は表現しきれていないのだと思う。パーティーのシーンにはたしかに豪華な「装置」は出で来るが、演じている役者から「愉悦」がつたわってこない。衣装が身についていない。着こなしていない。単なる群衆、というより、群衆以下だな。エキストラにすらなりきれていないひとがあふれているだけ。豪華なパーティーというよりもただのどんちゃん騒ぎである。実質がそういうものであるのかもしれないけれど、観客に、こんなのただのどんちゃん騒ぎじゃないかと思わせるようでは、ねえ。だって、「目撃者」のトビー・マグワイアは、それを豪華なパーティー、自分とは別の世界と見ているわけでしょ? その、別次元という感じが、ぜんぜんないからねえ。「洗練」が欠如しているのだね。成り金だから「洗練」とは無縁なのかもしれないけれど、成り金にしかできない「洗練」というものもありそうな気がするのだが、その成り金の強烈な消尽感覚もないからねえ。
 レオナルド・ディカプリオもよくないなあ。芝居をしすぎる。神経過敏に苦悩するシーンなど、顔が別人になってしまう。そういう人間はひとをだませない。結局、最後は純愛を生きるわけだから(純愛を目撃されるわけだから)、それでいいのだという見方もあるかもしれないが、そんな「ストーリー」は見終わった後でテキトウにこじつけることがらなのだから、こんなあからさまな変化を随所に見せては「紙芝居」になってしまう。ストーリーのための演技になってしまう。「キャッチ・ミー、イフ・ユー・キャン」のときのような明るいペテン師感覚が生きる歓びとしてあふれていないと、だまされる方も楽しくない。キャリー・マリガンが一生懸命フォローしているが、おいつかない。名前は知らないが、キャリー・マリガンの夫をやった役者が自然な存在感でスクリーンをひきしめていたのが印象に残る。
                        (2013年06月16日、天神東宝3)
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