田代芙美子『過ぎ去る時の河畔に』 | 詩はどこにあるか

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田代芙美子『過ぎ去る時の河畔に』(花神社、2013年04月25日発行)

 ことばと耳--について考えていたせいだろうか、田代芙美子『過ぎ去る時の河畔に』を読みはじめてすぐ「耳」ということばに出会った。「涙」と言う作品。

降り止まぬ内耳の雨をかきわけ
言葉を聞き取ろうとする聴神経は
一本の動脈に支えられ見えない昏がりで
かすかに聞こえる音を解析し組みたてようと
かつて過ぎた日の爽やかな記憶を求めて

 うーん。「耳」はここではじかに、テーマになっている。よく聞き取れないことば、なのか、ことばをよく聞き取れない耳、なのか。私の考えていることばと耳の問題とは少し違って、肉体の仕組み(障害?)の問題と向き合っているようなのだが。
 いや、それでもおもしろい。
 というのは、ちょっと親身さに欠ける感覚かもしれないけれど。

 私が考えていることばと音の問題から言うと、2行目の「聴神経」。これは、「音」が聴こえない。私はそのことばを聞いたことがない。ところが「ちょうしんけい」と入力し、変換すると「聴神経」になるから、そうか、これはやっぱり「ちょうしんけい」と読むのかと思い、こういう聞いたことのない音があると「聴神経」という文字から「意味」を想像してしまうので、どうも、私は不安になる。むりやり視神経(網膜)をこじ開けられて、そこに文字を突きつけられる感じ。目で、何かを考えはじめている。
 で、おもしろいのは。
 私がそう感じるだけではなく、どうやら田代も「視覚」をつかって何かを探っているということである。「耳の神経(と、私なら書く)」が、あれ、変だ、と気づいて、その「変」を具体化するとき(わかりやすく言いなおすとき)、

一本の動脈に支えられ見えない昏がりで

 「見えない」。ね、「視覚」でしょ? 「聴こえない」暗がりではなく、「見えない」昏がり。聴力が問題なのに、目が割り込んでくる。
 暗がり、ではなく、「昏がり」と書くところにも視覚へのこだわりがあるね。くらがりと「聞く」だけではつたわらない何か--黄昏からの連想で言うと、以前は明るかったのに、だんだん暗くなっていくのが「昏がり」なんだろうね。
 そして、

かすかに聞こえる音を解析し組みたてようと

 ここがおもしろい。田代のことばの動きのポイントがあるように思う。
 「音を解析し組みたて」る。これは、つまり世界の「再構築」である。世界を聞こえる小さな音にまで微分し、その微分値を積み上げる(積分する)ことで世界の全体を「つくりあげる」。聴こえないものを、聞こえる音がもっている最小の基本からつくりあげていく。
 このときできあがった世界というよりも、きっと、その作り上げるという作業が「意味」なのだ。
 で、そう考えるとき。

一本の動脈に支えられ見えない昏がりで

 この「見えない」が、おおっ、という感じでよみがえる。「聴こえる」微分値としての「音」。それを積分していくとき、田代は「見えない」ということばを支えている「視覚」を取り込む。「聴こえない」という問題をつきつめていくときに、聴覚だけではなく、視覚も知らずに動員してしまう。聴覚が否定されたとき、それを視覚が補う。そうして全体を「組み立て直す」。
 その「助けを求める」領域は「視覚」だけとは限らない。

かつて過ぎた日の爽やかな記憶を求めて

 「記憶」そのものに頼る。「記憶」の定義はむずかしいが、まあ、「おぼえていること」である。その「おぼえていること」というのは、耳が覚えていることもあれば、目がおぼえていることもある。ほかの肉体がおぼえていることもある。
 そういう、肉体の他の領域、それとぶつかるところまで、ことばを動かしていくというのは、必然なのだ。

 と、書いてきて、私は「ことばと耳」ではなく、「ことばと肉体」の問題にもどってきたなあ、と感じる。
 田代は、聴こえにくくなった耳のことを書きながら、耳だけではなく、視覚も動員して世界をもう一度つかみ取ろうとしている。そのつかみ取り方のなかに、何か新しいものがある、新しいものを提出できる--詩を作りだすことができる、と感じてことばを動かしているのだろう。新しい肉体の動かし方--それがことばになったとき、それが詩なのだ。
 「かすかに聞こえる音を解析し組みたて」るという表現には、ことばを日常的につかわない領域にまで微分し、突き動かし、そこから積分をはじめるという「新しさ」への決意がある。
 田代は「意思」の力でことばを統一しながら、肉体を微分し、再構築する。そうすることで世界をとらえろおそうとする。
 で、そのとき、とってもとってもとっても、おもしろいのは、自分の外にある世界だけではなく、田代の肉体の「内部」の世界もかわることだね。
 新しい肉体の動かし方をしたのだから、肉体の内部がかわるのはあたりまえなのだが、この必然が田代の場合、とてもスムーズ。だからこそ、それが輝く。

暗緑色の川水は粘り
石の階段は水底で蝕まれ ぬめり
耳の奥にゆらめく
ここでは音は初めからなく追憶からも消され
聴神経は安らぎを得るだろう
言葉のない川水に足を入れ水をみつめる
朝あけの陽は輝きを増し
あまりに透きとおる空に臆する内耳は
弦のように鳴りひびく

 前半は「ねばり」「ぬめり」ということばが指し示すように「聴覚」の世界ではない。「視覚」でも「ねばり」「ぬめり」は感じられるが、ほんとうに実感するのは「触覚」だろう。触覚の記憶が視覚にも影響して、それが見えるように感じられるのであって、そう感じたとしてもそれは視覚ほんらいの機能とは違う。感覚の融合が、そこにはある。融合(影響)があるからこそ、触覚につづいて「ゆらめく」という「視覚」的な感覚があらわれる。「触覚」は「ゆれない」。じかに「さわっている」(離れない)のが触覚である。
 この感覚の融合を「影響」と呼んでもいい。つまり、感覚は互いに影響しあうということ。
 だからこそ。

ここでは音は初めからなく追憶からも消され
聴神経は安らぎを得るだろう

 ということばへと展開する。「音」は実は「触覚/視覚」を含んでいる。そのふくまれているものが「触覚」「視覚」に吸収されてしまうと、音は消える。消される。「音」と思っていたのは、実は、他の感覚の融合したときに生じる「複数の感覚」の形なのである。音は「視覚+触覚」である。音が視覚と触覚に微分されてしまえば、そこには「音」はなく、「聴神経」はその無音に安らぐ。
 そして、完全に安らいだあと、そのあまりの安らぎに(不純物のなさに)、

あまりに透きとおる空に臆する内耳は
弦のように鳴りひびく

 内耳(聴神経)そのものが鳴りだすのである。「音」は耳の外から聴こえるのではなく、耳の内部で鳴りはじめる。「肉体」の「おぼえていること」が、音となって誕生するのである。
 「内耳」で降り続く雨のような「音」。それはもしかすると、耳自身の鳴り響きかもしれない。耳は聞くだけではなく、鳴るのだ。
 田代は、とてもおもしろい「哲学」を書こうとしているように思える。








海と砂時計
田代 芙美子
思潮社