辞書をつくる、というのはとても地味な仕事でたいへんな仕事だということがわかる。それだけでなはなく。
あ、辞書づくりはおもしろい。してみたい。
それが伝わってくる。真剣さに感染してしまう。まじめであることは、いつでも美しい。
これは松田龍平の代表作になるだろうなあ。
好きなシーンはいろいろあるが。いちばん好きなのは、松田龍平ではなく、どこかで見たことがある女優のシーン。どこかの部署から辞書づくりの部署に配転になってやってくる。「ビールはNG、日本酒はもっとだめ。飲むのはシャンパンだけ」と気取っている。辞書づくりの仕事なんかつまらない。辞書のファッション用語の古くさいのに「なにこれ」と思っている。こんな仕事大嫌い、と思っている。
そこへオダギリジョーがやってきて、「ださい」の項目について話す。「これは自分が書いたんだ」。そして用例の「酔って、泣きながら愛を告白するのはださい」(だったかな?)は自分の体験なんだ、と言う。
その瞬間に、この気取った女が豹変する。ことばって、おもしろい。ことばって現実なんだ。
で、辞書づくりに真剣になるし、ビールも飲むようになる。
つぎに好きなのが、辞書の紙を選ぶシーン。製紙会社の人が自慢の紙をもってくる。それに対して松田龍平が「ぬめり感」が足りないという。指に吸いついて、一枚一枚めくれる感じ。それを求めて、製紙会社の開発部のひとが、あさこれ検討するシーンがちらりと出てくるが、同時に、先に書いた辞書づくりなんてくだらないと思っていた女が、引き合いにだされた辞書をめくって、ページが指に吸いつく感じを確かめながら「ぬめり感……」とつぶやくシーン。(これは、オダギリジョーがやってくる直前のシーンなのだけれど。)ここでも、ことばは「現実」そのもの、自分の感じていることをつたえるためのものということを実感している。肉体で確かめている。
どこにでも「ことば」はあり、そのことばは「生きている」。
これは辞書づくりの監修をしている加藤剛(教授)が言うことでもあり、今回の辞書の方針は「生きていることば」を多く取り入れること、という方針として語られることでもある。さらには辞書が完成したあとも、すぐに改訂を目指して「用例採集」をしはじめる松田龍平や小林薫の姿勢でもつたえられるのだけれど、そういう「主役級」のひとのことば、態度ではなく、わきの途中から出てくる女優をとおして、「無言」のまま展開しているところがいいなあ。「ことばは生きている」が押し付けになっていない。「実感」として、そこにある。
あ、松田龍平について書くのを忘れた。
何をしていいかわからない、無能な営業マンが、自分の仕事をみつけ、のめりこんでいく。仕事を進めていくにしたがって、どうしようもない男が、ひとりの人間になっていく。この感じが実に自然。その自然のなかに、最初の「右の定義」(西を向いたとき、北に当たる方が右)を自分のなかから引き出してくる愚直さ、愚直な美しさがあって、それがとても魅力的である。見た瞬間に魅力的なのではなく、その人間が動くのを見ていると、だんだん魅力的になってくる--そういう魅力。これを「時間」をかけて浮かび上がらせる。
登場する役者だけではなく、本だらけの古いアパートの感じ、辞書づくりの部署の感じ、古いワープロ(コンピューター)の感じ、私の苦手な猫の感じまで、とてもていねいにていねいに撮影されていて、文句のつけようがない。松田龍平が教授を見舞いに行った病院の廊下を走ると、すかさず看護婦が「走らないでください」と注意するという一瞬のシーンにも「気持ち(主人公)」と「現実(他者)」が出会い、そこに「ことば」があることがはっきり描かれている。
原作はとても評判になったが、私は読んでいない。で、読みたい、と思った。映画を見て原作を読みたいと思う映画はめったにない。「読む」というのは「ことば」で確かめること。「ことば」をとおして体験をもう一度復習すること--もう一度あの感動をたしかめたい、そう思わせる映画はすごい。
(2013年04月16日、天神東宝5)
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