トマス・ビンターベア監督「偽りなき者」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 トマス・ビンターベア 出演 マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、アニカ・ビタコプ

 幼稚園の園児がちょっとした思いつきで嘘をつく。聞きかじりのことばを、意味もわからずにしゃべってしまう。そこから始まる不条理と向き合う男……。
 そこに展開される「非寛容」のあり方が、うーん、怖いなあ。これはキリスト教と関係があるのだろうか。映画はクリスマスを意識する11月から始まり、クリスマスイブにクライマックスがあるので、ついついそんなことを思ってしまった。私はキリスト教徒ではないし、キリスト教のことも詳しくはないのだが、「ことば」を絶対的に信じる姿勢、「ことば」のなかに論理(正しさ)が存在するという意識が、何か「非寛容」とつながっているような気がしてならない。
 こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「非寛容」というのは「意識=論理」の問題なのである。感情の問題ではなく「論理」なので、妥協を許さない。感情なら「違っていても、まあ、いいか、それもありうるな。どう感じるかは個人の勝手、個人の問題」といえるところを、「論理」はそういう具合にならない。いろいろな見方があっても、それを「ひとつ」にしてしまう。「正しい結論」は「ひとつ」。
 たとえば幼い子どもは嘘をつかない。あとで、それは嘘だと言ったとしても、それはそのときの体験を忘れたいという無意識が働いているのである、という具合。矛盾が矛盾にならないように、あらたな「論理」をつくりだしていく。つまり、「論理」というのは引き返さない運動である。
 「非寛容」は、他人に対する姿勢というより、自分自身(論理自身)に対する姿勢、最初の「論理」に固執するということかもしれない。その、自分の論理にこだわるという意識の強さとキリスト教がどこかでつながっているかもしれないなあ、と私は思う。誤解かもしれないけれど。
 まあ、そんなことは、いいとして。
 この映画は、その「引き返さない論理」(前言をひるがえさない姿勢)をヒステリックに描いているのだが。
 とてもおもしろいと思ったのが、男と女の描き方の違い。
 主人公の男は幼なじみのグループと、ずーっとグループでいる。そこでは男の離婚や、新しい恋人のことはちょっとした「からかい」(やきもち?)の対象になることはあっても、憎悪の対象とはなっていない。
 ところが、女の側からは、どうもそういうふうにはとらえられていない感じがする。主人公を最初に追い詰めるのは幼稚園の園長だが、彼女はどうも独身っぽい。たったひとりの男の存在が気になる。男が、アメリカかイギリスかわからないが、英語を話す若い女となんとなく親しいのも気になっている。俗なことばで言えば、主人公を「セックスの象徴」と見ている。そこへ、女の子が、ふと奇妙なことを言うと、「どうしてそんなことを言うの? そんなことばを言ったらだめよ」ではなく、自分の「願望」へと突き進んでしまう。幼い子どもの話は「こと」ではなく、単に「ことば」であることが多いから、「そんなことばを話してはだめ」で十分なことがあるのだけれど、「ことば」に対して余裕がないと、そのあたりを勘違いする。女の子のことを「想像力の豊かな子」と園長は呼んでいるが、そうではなく園長の方が「想像力」を一方の方向に固定し、「想像力」を「論理」にしてしまうのである。「こと」ではなく、「ことば」をそのまま、出発点にしてしまうのである。
 だいたい、男の性器が「ぴんぴんに立っていた、棒みたいだった」(デンマーク語でどういうか知らないけれど)というような「比喩」は、それを聞いたり話したりしている人間にしか言えないことばである。女の子は実際、兄たちがそう話しているのを聞いたので、そう言っているのであって、それを「見て」、そのことばを言っているのではない。「ことば」はいつでも「耳から」入ってくるものであって、「見る(触る)」だけでは「ことば」は生まれない。そういうことを知らないから、園長の「論理」は妄想へと暴走する。
 これは逆に言えば、「ことば」は「見なくても」、「聞く」ことだけを頼りに増幅するということをも意味する。
 で、実際、この一方的な「論理」は、幼稚園の教師たち(主人公以外は全員女性)によって、増幅される。「見ていない」からこそ、増幅する。「見ている」ことを頼りに増幅する。つまり、若い女性と主人公が親しい関係にあるということが、なんというのだろう、成熟した女性と性的交渉のある人間なら幼い子どもを性の対象にはしないという具合に論理が進むのではなく、離婚した男が(私以外の)若い女性と性関係を持つだけではなく、さらに幼い子どもにまで手をのばす--私を無視して、というような妬み(?)を栄養にしながら「いやらしい」「ヘンタイ」という具合に、奇妙に増幅される。
 その「論理」に男たちがひっぱりまわされる。自分の潔癖(妻だけを愛している、純粋なキリスト教徒である)を証明するために、男たちは女の「論理」に乗ることしかできない。そして、その「憎悪の論理」に乗ってしまうと、男の方が暴力的になるのだけれど。そこが、男のばかなところなのだけれど。つまり「論理」を正当化(補強?)する方法として暴力しか思いつかないというところが、男のばかなところなのだけれど。そしてそこにも、やはり主人公に対する一種の「嫉妬」があるかもしれない。男もまた「嫉妬」を生きる。「感情」を「論理」を借りて、吐き出している。隠れている「感情」を「論理」を借りて吐き出すという点で、女と男は共通し、--そういう要素がまたキリスト教にはあるということかなあ。
 あ、脱線して行ってしまうなあ。
 この奇妙な「論理」の厳しさが、映像の厳しさ(?)になって、映画のなかを動く。映像は、とっても清潔。純粋。男と幼稚園児のセックスというようなものとは無縁の清潔な、張りつめた感じて動く。まあ、そういうものはなかったのだから、不純に、濁るということはありえないのだけれど--それに拍車をかけたように、厳しい感じで映像が引き締まっている。デンマークの冷たい冬の空気そのままに、人間を厳しく切り刻む。(北欧の映画は、こういうことが好きだなあ。)
 冷たい空気に切り刻まれる人間のあり方、その象徴としての主人公を演じたマッツ・ミケルセンがすばらしい。わけのわからない状況においこまれても、「論理」を逸脱させない。逸脱のしようがなく、ただ緊張感のなかへ結晶していく。肉体が悲鳴を上げるまで。彼は「ことば」を生きていない。「肉体」を、言い換えると「肉体」を生きている。冒頭の、初冬の川で足がつった友人を助けにいくシーン、それから幼稚園で子どもたちと遊ぶシーン。そこには「ことば」に先立って、「肉体」の接触、行動がある。「ことば」ではなく、「肉体」で他者と接する姿勢がきちんと描かれている。「肉体」があって、そのあとで「ことば」が追いかけていくという生き方を、実に自然に演じている。主人公にとっては、「論理」は「ことば」ではなく「肉体」なのである。実に、説得力がある。この「肉体」が「ことば」である、ということを、なかなか「ことば」で「論理」を暴走させてしまった周囲のひとは見ないのである。
 映画は、主人公が「肉体」で「自己主張」することで、最後にきて、ぱっと動く。主人公は、主人公の友人であり、「被害」を訴えた少女の父親に、「おれの目を見ろ」という。「ことばを聞け」ではなく、「肉体」をしっかりと「見て」、触って(殴りあってでもいい)、そこから「肉体」そのもの、「ことば」を超えるもので判断しろと迫る。クリスマスのミサから、主人公と少女の父親が「和解」するまでが、とても美しい。この、そこには「男の肉体の論理(肉体の論理)」が動いていて、少女の父親がもってきた料理を主人公が食べるというシーンで終わるといいなあ、ここで終われよ、と思っていたのだが……。
 その1年後。うーん、不気味だなあ。あれはなんだろう。一度動いた「論理」は二度とはもとにもどらない。どこかで動きつづける。「ことば」(あるいはキリスト教)とはそういうものであるというメッセージだろうか。このラストに私は「意味」をつけくわえたくない。だから、ここで感想を突然、打ち切る。また何か感じたら、そのときまた書くために。
                      (2013年03月18日、KBCシネマ2)




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