谷川俊太郎「そのあと」 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「そのあと」(「朝日新聞」2013年03月04日夕刊)

そのあと

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

 「意味」の強い詩、意味を考え、意味を味わう詩である。そのとき意味を考え、味わうのは「頭」なのかもしれないが、その「頭」を「こころ」に替える――というのが谷川の特徴なのだと思う。その移行を「ひとりひとりの心に」と、「心」ということばを書くことでスムーズに誘導する。
 でも、この詩でおもしろいのは、2連目の「青くひろがっている」の「青」だね。
なぜ青?
分からないけれど、私は納得してしまう。そしてそのときの青というは強い青、深い青ではなくて、きっと水色に近いやわらかい色だと思う。
 これは、もちろん私の「誤読」。
 他のことばの影響を受けながら、私の肉体が引っ張り出してきた、ぼんやりした「青」。「霧の中の青」と言い換えることができる。
 「そのあと」があることは、私もなんとなく「覚えている」のだと思う。その「覚えていること」と谷川のことばが重なると、その「青」になんとなく、やわらかな青が重なる。夏の強烈な海の青じゃなくて。でも、秋の澄み切った青空の色なら、その青でもいいかな・・・。あるいは谷川が「宇宙の孤独」というときの、その青でもいいかなあ・・・。青がどんどんかわってきて、広がる。
 この「広がり」。どんどん「あいまい」になるのだけれど、あいまいになるほど「共感」が強くなるという、変な要素がない?
 この変なところが詩なのだと思う。
 デザインの現場なんかでは、青がどういう青か特定できないと仕事にならないけれど、詩ではそれぞれが勝手な青を思い浮かべ、それも思いついた先から違う青を感じ、要するに「誤読」が増えていくにしたがって親近感が増してくる、という変なところがあるね。
 結局、その「青」はどんな青――なんてわからないけれど、この「青」といっているところが好き。
 詩はそうやって好きになればそれでいいんだろうなあ。
 「そのあと」は、そうだね、谷川が書いているように「ひとりひとり」の問題。




自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店